19繭

19繭



タイトル:繭(まゆ)
場所:東大和市芝中中央公園
設置日:平成4年10月26日
材質:ブロンズ、黒御影石
サイズ:H2000×W700×D700センチメートル

(作品紹介)
 昔、東大和市の農家では、養蚕(ようさん)が盛んに行われていました。養蚕とは、蚕蛾(かいこが)の幼虫である蚕が作った繭(まゆ)を糸にして売るために蚕を飼育することです。
 昔は、農作物だけでは収入が少なく、不作だと半年や一年は苦しむこともあったため、養蚕は農家にとって貴重な収入源にもなっていましたので、蚕のことを「オコ様」とか、「カイコ様」と呼んでいました。
 そのため畑には蚕の餌になる桑が一面に広がっていました。蚕を飼っている農家では、特に七月の下旬から八月二十日頃までは初秋養蚕で忙しく、九月は晩秋養蚕で大わらわでした。


関連モニュメント

木綿絣

タイトル:木綿絣
場所:東大和市多摩湖下貯水池
設置日:平成7年3月
材質:ステンレス、コールテン鋼
サイズ:H1400×W1700×D1700センチメートル

 昔・東大和市では機織りが盛んでした。藍染の木綿絣がほとんどで、江戸の頃から、明治、大正となるにつれて生産が増えました。白い綿糸十二反分を輪にして、ところどこをくくり、藍がめで染めつけ、絣模様を作りました。このくくり方の間隔で絣模様が変わります。染め場には、藍がめが何十個もあります。藍玉をかめの水によくとかし、染め付けを良くするために、押麦、米、灰、酢などを入れ、よくかき回します。かめに入れ綿糸を引き上げて絞り、何度も打ちつけて乾かし、また次のかめに入れます。

 こうした作業が繰り返されて濃い紺色に染め上がります。染め上がったら、つぼ(織子)に出します。織手の娘たちは、朝五時ころから、夜十時ころまで織り続けます。朝食前に三、四尺織り、一日に一反織って一人前と言われました。この木綿絣は、時代の流れとともに、人々が洋服を着るようになると需要が減り、次第に織られなくなりました。
―東大和のよもやまばなしから―

 この作品は、木綿絣をイメージし、東大和市美術工芸品設置事業の一環として製作したものです。
 平成六年度製作


【村山絣】

村山絣

 東村山から瑞穂あたりにかけて、昔は村山三里と言われ、機織がさかんでした。あい染の木綿絣がほとんどで、村山絣と名づけられていました。道路沿いの家や農家の縁先からは、朝早くから、トントンカラリと賑やかにはたし(機織機 はたおりき)の音がひびいてきました。

 村山絣の起源については、一説に、石川に住んでいた荒畑源七さんという人が考案したとも言われています。江戸期のころからでしたから、明治、大正となるにつれて生産がふえて、多い時には年間三百万反も織られました。芋窪で綿屋をしていた木村音八さんは、

「先祖が綿や藍を作ったが、綿は織物に適さなかったと言っていた。」

と話されました。せんいが細くて長い英綿(えいめん)や米綿(べいめん)が織物には適していたそうです。

 各村には機屋兼紺屋が数軒あって、木綿糸は東京の問屋から仕入れ、あい玉は四国や九州から買いつけました。白い綿糸十二反分を輪にして、ところどころを元結でくくり、絣模様をつくってから、あいがめで染付けます。このくくり方の間隔で絣模様が変り、くくりは、後に麻糸一本を切らずに続けてくくる
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ようになりました。

 染場には、あいがめが何十個もあり、土の中に二尺ほど埋まっています。あい玉をかめの水によくとかし、染料がいつも人肌温度を保つように、かめとかめの間に穴を掘って、その中でおがくずを炎のたたないようにいぶし続けます。染め付けをよくするために、押麦、米、灰、酢などを入れ、管棒でよくかき回すのですが、この時の音で染めごろがわかるそうです。これを

「かめが口をきいてくれる。」

と言う紺屋さんもおりました。

 かめに入れられた綿糸は、引きあげて絞り何度も打ちつけられて乾かし、また次のかめに入れます。こうした作業が繰り返されて濃い紺色に染めあがります。晴天が続いても、染めあがるまでに三日はかかるので

「紺屋のあさって、ということばは、こんなところから言われたのかもしれないよ。」

 と紺屋さんが言いました。かめの中のあいが発酵して、一ばんよい染めごろになると、泡ぶくがたってキラキラと輝き、まるでダイヤモンドの光のように美しいので、「かめに華が咲いた。」と言いました。女性をかめ場に入れると、この華がしぼむと昔から言われて、染め場の作業は、全部男の仕事です。大正の始めごろ、ドイツからピアという化学染料が輸入されてからは、染めあがりが速いので、ピアを使うようになりました。

 染めあがったら、つぼ(織子)に出します。つぼは農家の娘だけではなく、立川や国分寺あたりから、
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一年いくらの契約で織子を雇いましたから、一軒で百人ものつぼを抱えている機屋もありました。十二反の綿糸を一かけと言い、一かけ織って大正のころ二円から三円ぐらいの織賃でしたから農家にとっては、よい現金収入です。

「村山三里じゃ、たばこ屋では蔵が建たぬが、娘三人いたら蔵が建つ。」

という言葉があるほどです。この織賃は、絣の細かさ、織りこみの上手、下手で差がありました。現金は直接親に渡されたので、娘たちには織賃がいくらなのかわかりませんでした。子供たちも、絣ほどきや管巻を手伝います。五厘ほどのおだ賃を貰うのが楽しみで他家の仕事を手伝って、口の端にあい色をつけたまま帰宅して親に叱られたりしました。

 織手の娘達は、朝五時頃から"はたし"にすわり、夜十時頃まで織り続けます。朝食前に三、四尺織り、一日に一反織って一人前と言われました。中には、二反織ったという娘もいたそうです。

「十一歳か十二歳ごろだったね。背が低いもんだで"はたし"に足が届かんのでね、高下駄はいて織り方を覚えたもんよ。」

と言ったお婆さんがおります。一かけ織ると半反近くあまるので、その布をためておいて内着にしたそうです。

 一ばん難しいのは、一束二十という蚊絣(かがすり)で一幅(ひとはば 三十二センチメートル)に六十の絣を織りこみます。これは下宅部の人たちがよく織ったそうで、石川では一幅に四十とか四十五が多かったようです。

 大正十一年の平和博覧会に出品した蚊絣は特に念入りに織った一束二十でしたので、一日に三、四尺ほ
どしか織れませんでした。三反織った内の一反を大正天皇に献上し、二反を出品して銀賞を受けました。

 この村山絣は、時代の流れとともに、人びとが洋服を着るようになると需要が減り、また大平洋戦争の影響もあって、しだいに織られなくなりました。(『東大和のよもやまばなし』p62~65)


 村山で織られていた織物は、あらかじめ染めあげた糸を用いて柄を織り出す「先染め」という染色方法で、反物にしてから染める後染めと比べると、柄の仕上がりがより鮮明に出るという特徴がある。

 明治期まで絣を「飛白」とも書いたというが、その文字のとおり、糸を括った部分を白く染めぬいた柄が、藍染めの紺地の中にやわらかく浮き出ていて、すがすがしい。

 村山絣の誕生にまつわる諸説のように、当初の絣は「十の字」や「井の字」のような単純なものであった。その後、さまざまな柄行きが研究され、二の字、三よろけ、四菱、丸菱、浪など、次第に細かい小中柄へと発展し、織り幅に一〇~二〇の絣柄を織り出せるようになった。村山の場合は、経緯の両方の糸を染めぬく「経緯絣」である。

 更に慶応三年(一八六七)には、大和国八木町(現奈良県橿原市八木町)出身の高塚佐吉が、入間郡荒幡村(現所沢市)の内野徳左衛門の家に滞在中に経模様機台を作り、家人に絵絣を伝習した。これが大絣のはじまりで、所沢絣の柄行きの発達にも大きな影響を与えていった。

〔経緯絣の技術〕

 木綿絣は、紺無地部分となる地糸と、絣の図案部分にあたる絣糸で構成される。経糸・緯糸の絣柄となる部分を、1
紙こよりなどできつく筒状に括り上げて防染し、柄を染めぬく。そして織る前の整経(経糸を整えてオマキに巻きあ
げる)の段階で、横一列に並んだ経糸の染あぬき部分を、交互にずらして柄を柄との間へ移動させる。これを「グに
引く」といい、この方法は、まさに「飛白」という言葉があらわすように、絣柄を飛ぽし平坦な図柄を動きのあるも
のにする。井桁や丸柄に代表されるように、素朴なあたたかみのあるやわらかな柄を織り出すことはできるが、精密
な図案を求めることは技術的には難しかった。
〔地機から高機へ〕
一しこ■ま、"られていた(図1-49 。地機はいざり機之もいい、座る位置が低く設けられ
武蔵村山市史 民俗編p223~224