1万年前(前8000年・縄文時代)~0年(弥生時代)

1万年前(前8000年・縄文時代)~0年(弥生時代)

前8000年

・縄文時代早期(1万年~6000年前)
・今から約一万年前、そのはじめのころは、年平均気温で現在より摂氏二 度前後低く、海水面の上昇は現在より三〇メートル前後低い水準であった。
 東京湾は現在よりもずっとせまくて、そこに流れこむ川の河口付近には、淡水と海水が入りまじる汽水性の海域が広がっていた。
 このような環境を生息場所としてヤマトシジミが生育した。
・夏島貝塚とともに最古の貝塚として知られている千葉県香取郡神崎町の西之城貝塚(にしのじょう)も、ヤマトシジミを主体とする貝塚である。 
 縄文早期の撚糸文系土器の時期、それも最古型式に属する土器にともなう貝層が、夏島貝塚は東京湾、西之城貝塚は利根川下流域と地域が違うにもかかわら  ず、海進の先駆者といわれるヤマトシジミを主体としていた。(東村山市史上p202)
・貝塚の出現とほぼ同時に、骨角製の釣針とヤス状の刺突具が出現するように、撚糸文系土器の時期は、日本列島で本格的に漁撈具を開発した時期でもあった。 (東村山市史上p203)
・日本列島に土器が出現したころは、ようやくヴュルム氷期の寒さもゆるみ、針葉樹を主体とした森林から、しだいに落葉広葉樹と照葉樹の森林へとかわろうと していた。この落葉広葉樹と照葉樹の森林には、ドングリ、クリ、クルミ、トチノキなどの堅果類が豊富な実をつける。これらのアク抜きと製粉に石皿、磨  石、敲石、凹石などの新しい石器と撚糸文系土器が用いられた。(東村山市史上p201)

前7000年

・9000年前 虫歯の治療痕(ドリル)がある人骨発掘 パキスタン⇒

前6500年

・8500年前、国分寺市恋ヶ窪南遺跡、直径150メートル以上の環状集落遺跡(列島創世記 p74)

前5000年

・7000年前、北区中里貝塚が造られ始める。貝の一大加工場、幅100メートル、長さ500メートル、厚さ最大で4メートル半。
 蛤が加工され保存食料として貯えられた。周囲に集落はなく、当時の海岸線。(列島創世記 p80)
 朝日新聞では4600〜3900年前(朝日新聞中里貝塚)

前4000年

・縄文海進・有楽町海進(5000~6000年前 東村山市史上p57)
・後氷期になると、気候の温暖化にともなう海水面の上昇によって、内湾環境の拡大や落葉広葉樹林の拡大、生態系の変化などが生じ、こうした 環境変化に応 じた文化、すなわち縄文文化が成立した。
・海水面の上昇は、今から約5000~6000年前には現在より3~4m高い位置にまでおよんだ。
・この海面上昇期は、縄文時代早期末から前期前半にあたることから縄文海進と呼ばれ、内陸まで海水が入りこんで奥東京湾を形成した。
・奥東京湾の沿岸部において当時の漁撈活動などの生業活動がうかがえる貝塚遺跡が多く形成される。(東村山市史資料編 考古p16)
・縄文時代前期(6000年~5000年前)
  縄文人は漁場として積極的に開拓した結果、貝塚文化が広く展開
  川越市や富士見市(水子貝塚)などでも貝塚が形成
  海岸部での集落の安定化は、内陸部にも集落を進出させ、所沢市の海谷遺跡のように六〇棟をこす住居跡が検出され集落遺跡、あるいは東久留米市の神明山南 遺跡や新橋南遺跡のように、石鏃などの石器製作を行った集落遺跡などというように、内陸部にも点々とその分布を広げている。
・六○○○年前にピークをむかえた縄文海進は、それ以後は逆に海退にむかう
・一時的にせよ、遺跡数の激減と集落規模の縮小を余儀なくされる
・これを機会に、生業活動の中心を植物質食料に対する依存度が高い生活へと積極的に切りかえた。中期前葉の勝坂期の石器セット。(東村山市史上p217)
・イタリア北部マントバ近郊で抱き合う男女の遺骨を発掘、2遺体を一緒 に埋葬
・チンパンジーが石器使用4300万年前⇒

前3000年

・縄文時代中期(5000~4000年前=紀元前3000~2000年)
・武蔵野台地に縄文遺跡爆発的に増加
  武蔵野台地の内陸部では、中部高地とともに、縄文中期という時期に植 物採取と加工の技術を最大限に利用した井戸尻文化が栄えた。
・中期前葉の勝坂期に、土掘り具である打製石斧が爆発的に増加し、製粉 具である石皿・磨石・敲石・凹石の石器セットとしての安定化がはから れた。(東村山市史上p219)
・中期・晩期に出土する大型石棒は葬送儀礼との関係が深い⇒朝日
・東久留米市新山遺跡 縄文時代中期後半(4500~4000年前)の竪穴住 居址40棟
・北区では、台地上に、七社神社裏貝塚や西ケ原貝塚などの貝塚をともな う大規模な集落、
  台地の崖線下には、縄文時代の「水産加工場」を思わせるような大規模 な貝塚である中里貝塚が形成された。(東村山市史上p219)

前2600年

中里貝塚は、縄文時代中期〜後期初め(約4600〜3900年前)の国内最大の貝塚(朝日新聞中里貝塚)

前2500年

・4500~4000年前、大湯環状列石が造られる。(列島創世記p122)

前2000年

・縄文時代後期(4000~3000年前=紀元前2000年~1000年)
・約四○○○年前頃になると、日本列島の少なくとも東半分は、気候が冷涼で湿潤な環境に悪化した。
 冷涼で湿潤な環境は、陸上の動植物に大きな打撃をあたえた。
・縄文時代は自然物に頼り、狩猟・植物採取・漁撈を主な生業とする獲得経済社会であった。自然物に頼る社会では、自然物の増殖率の範囲内であれば、人口の 増加による食料の確保も可能であるが、増殖率をこえる人口増があると、自然物が枯渇して食料の不足に見舞われることは必至となる。
・縄文社会は、生産の発達にともなう人口の増加→自然物のとりすぎ→人口の減少(ほかの地域への移動)を、時期や地域によって規模や内容は一様ではないが、 何回か繰り返すことになり、それは生産用具などの獲得手段や技術の発明・改良を加えても、どうしてものりこえることがで ない矛盾であった。
・冷涼で湿潤な環境は、陸上の動植物に大きな打撃をあたえ、人口増による食料資源の枯渇に、さらに追い討ちをかける結果となり、壊滅的ともいえる打撃をう けた。
・こうした条件が重なって、縄文文化は衰退の時期に入る。(東村山市史上p221)
・武蔵村山市吉祥山遺跡 東村山市下宅部遺跡
・環状盛土遺構(寺野東遺跡・栃木県小山市、曲輪ノ遺跡・千葉県佐倉市) 
 縄文スタジアムか住居跡か、明治大学は集落説 小林達雄國學院大教授はスタジアム説

前1500年

・海水面の低下=縄文時代後期から弥生時代後期にかけての小海退がおこ る。(3500~1800年前=紀元前1500年~紀元後200年)
・東村山市№152遺跡、多摩湖町4丁目、北川左岸の下宅部(№149)遺跡 (東村山市史資料編 考古p16)
・古代エジプト第18王朝期のハトシェプスト女王(在位紀元前1503年ご ろ~同1482年ごろ)のミイラを特定⇒07.0628 朝日、読売

前1000年

・縄文時代晩期(3000年~2200年前)
・基本的な弱点を縄文社会がもっていたために、個々の住居に住まう家族や個人が勝手な行動をとることになれば、集落の安定が失われるだけでなく、
 集落の存立そのものが損なわれてしまうことになる。
 それを避けるためには、集落の成員が緊密な組織のもとで共同労働をし、 生産物の分配も平等に行われる必要があった。
 縄文時代の定型的な集落が、中央の広場を中心として住居が環状に配置されていたのは、
 こうした集落における共同労働による生活を、なによりも証明するものである。
・遺跡の数は極端に減少するが、東村山市下宅部遺跡のように高度な製作技術を持った生活用具を使用する集団が生まれる。
・縄文社会の豊かさを指し示す遺物や遺構は、実は縄文人が地球の資源が有限であることを経験的に自覚して、その再生産のなかに生活をゆだねるという、
 縄文人の生き方から生まれた産物なのである。 (東村山市史上p228)
・青森県三内丸山遺跡

前1000年
・弥生時代の開始を九州北部で紀元前1000年まで遡らせる学説あり。
・従前は紀元前500年~紀元後300年
・縄文時代後期・晩期の修正に迫られる

前400年

・弥生時代(2400~1700年前=紀元前400年~紀元後300年)

前期・早期

・紀元前5世紀、朝鮮半島から九州北部に、水稲耕作と金属器の新しい文 化がもたらされた。
・紀元前3~2世紀の弥生前期には、稲作は東海地方まで広まった。東北 地方でも、前期に稲作が開始された地域がある。(東村山市史上)
・縄文時代晩期後半の北九州に大陸からまったく新しい文化が伝播してきた。
 それには水稲栽培と大陸系石器、金属器、養蚕技術と絹織物、ガラスエ芸からなっており、
 伝播には時間差があるが、弥生時代前期にはこれらの技術は揃っていた。
・その後、全国に伝播したが、一様ではなく地域によってその受容には差 異が観察されている。以来、関東地方は概して西からさまざまな文化を受容した。
 水稲栽培に限ったことではなく、土器文化でも西から影響を受け、大陸系石器の流布、墓制でも西から流行ってきた。
・その最初が弥生前期のことで、その年数は三〇年にも満たないと考えられている。(武蔵村山市史上p173)

武蔵野台地は遺跡の空白地

・雨水の浸透性が強い洪積台地からなる武蔵野台地は、水が乏しく乾燥し た土地柄といえる。そのために、河川が少ない台地の中心部分は、遺跡 の空白地域となっている。沖積低地が弥生時代の初期の生産力では、あ まりにも広大すぎて、かえって開発を大きく制約することになった。(東村山市史上)

水田可耕地である谷戸を求めて活動

・前期から中期初頭の遺物が検出される遺跡は、点々と発見されている。 東村山市内でも、鍛冶谷ッ遺跡、徳蔵寺遣跡、№152遺跡から検出され ている(図42)。丘陵・山間部から台地縁辺部まで点々とみられる。
 それは新しい稲作文化を担うパイオニアたちが、水田可耕地である谷戸 を求めて、積極的に活動したことを物語っている。(東村山市史上)
・稲作情報を知ってからのもっとも古いと思われる弥生初期の遺跡が所沢 市お伊勢山遺跡である。晩期末から弥生初期にかけての土器類が発見さ れている。(武蔵村山市史上p175)
・所沢市お伊勢山遺跡

弥生時代中期

中期

・関東地方で水稲栽培が定着してからを弥生中期というが、中期後半に急速に水田耕作が普及し、
 それとともに確実に政治権力が発生していく時代となっている。
・東日本への稲作の伝播とともに遠賀川式土器が伝播した。遠賀川式土器 は伊勢湾沿岸まで伝播し、その地に西志賀式土器を生み出し、
 東山道を経由して北関東から北日本に、あるいは対馬海流にのって北日本に進出する段階で、変形し、遠賀川系土器とよんでいる。
・狭山丘陵の近くまで稲作情報が寄せられていることになるが、遠賀川式土器も水神平式土器も検出されていない。(武蔵村山市史上p173)

中期中葉(紀元前2世紀

・小田原市・中里遺跡
 弥生化した縄文人の村⇒94.04.08.読売
・中里遺跡では土木工事跡とともに須和田式土器期の集落跡、それに方形 周溝墓など、新しい墓制を導入するにあたって摂津国(兵庫県)から技術援助を受けて いたことが明確になった。須和田式土器とともにあまりに も唐突に摂津の弥生土器が検出されていたからである。
 中里遺跡は相模湾に近く、海を経由してそれらの技術が導入されたもの と考えてよいと思われる。(武蔵村山市史上p176)
・狭山丘陵から西に、約四キロメートルしか離れていない秋留台地の東端に前田耕地遺跡が立地し、そこから北関東系の弥生土器が単独で発見され、
 さらに中期中葉の土器も発見(図Ⅱー37)されている
・狭山丘陵には達していない。また、秋留台地のつけ根の丘陵にある日の出町岳の上遺跡から弥生中期の須和田式土器が発見されており、さらに青梅市馬場遺跡 からは信州系の弥生土器と磨製石鏃の製作跡が発見されているにもかかわらず、その波は狭山丘陵に達していないという理解できない現象が起っている。
・千葉県君津市常代遺跡では須和田式土器期に東海地方との交流によって方形周溝墓を導入し、そのために伊勢湾地方の弥生中期の貝田町式土器が検出されてい る。併せて稲の栽培技術が移入されたものと推定してよいと思う。
 内陸部の埼玉県小敷田遺跡では須和田式土器期の環濠が三条、住居跡二八軒、方形周溝墓五基、井戸一基、土壙三六基などが検出されているが、
 そのなかの一軒の住居跡から炭化米二〇〇粒が発見されており、確実に水田耕作が行われていたことが明らかになっている。(武蔵村山市史上p176)

中期後半 小規模な集落

・中期後半の宮ノ台式期になると、荒川沿いでは、北区の飛鳥山遺跡、亀山遺跡、道灌山遺跡、板橋区の四葉地区遺跡B区(沖山遣跡)、和光市の新倉午王山遺  跡、花の木遣跡というように、環濠集落が沖積低地に臨む台地上に営まれるようになる。
・また、環濠は確認されていないが、東日本で最初の鉄斧が発見された朝霞市の向山遺跡や新屋敷遺跡、富士見市の南通遺跡などでも、小規模ながらも集落が営 まれている。
・しかし、いまだ集落は、地域的にまばらな分布を示しているにすぎない し、荒川や多摩川に注ぐ中小河川の上流域に集落が進出する傾向はみせていない。(東村山市史上)
・埼玉県熊谷市・北島遺跡(水田跡)00.05.24.朝日

環濠集落

・水稲栽培の最盛期は次の弥生中期の宮ノ台式土器期からで、南関東の各 地に環濠集落が形成される時代となった。
・南関東地方でも稲や水をめぐる争いが発生して、その権益を守ろうとする勢力が台頭し、かれらは集落を守るために周りに環濠をめぐらして防御集落とし、
 あわせて水田をも守る姿勢を打ち出したものと思われる。
・そのため南関東の各地に環濠集落が発生して、一定の距離を保つという傾向となる。かれらは環濠集落の近くに必ずといってよいほど方形周溝墓群をつくる傾 向にある。すなわち、集落の支配者の墓を中心に一族の墓域を形成するのである。
・典型が国指定の横浜市大塚遺跡であり、その近くに墓域(方形周溝墓群) としての歳勝土遺跡があって、この両者は一体の遺跡(図Ⅱ―36)である。
・環濠集落を中心にして横浜市域だけで五か所の環濠集落が立地している。(武蔵村山市史上p177)
・横浜市大塚遺跡

弥生時代後期 前100年 ○関東に弥生の波 が到達する(歴博)

後期(紀元前50~紀元1世紀)静岡県・東原田遺跡⇒98.07.04.朝日 二重の環濠
後期(2世紀後半)志賀・守山伊勢遺跡
  居館を方形に区画 邪馬台国の国の首都か⇒95.01.12.読売
  直径210メートル巨大な祭祀空間⇒01.12.07.読売
後期(2世紀後半)新潟県・上越市裏山遺跡
  高地性集落=倭国大乱の及ぶ範囲
後期(2世紀後半~3世紀初め)愛知県豊田市川原遺跡⇒97.11.15.読売
  全国最大の方形周溝墓 
後期(3世紀後半)沼津市北神馬土手遺跡⇒95.05.25.読売
  100平方メートルの畑
・弥生時代後期になると中期よりは規模が小さくなるが環濠集落が形成さ れ、横浜市周辺では北区新吉田町の大原遺跡や戸塚区上柏尾町そとごう 遺跡、南区下永谷町殿屋敷遺跡群などに環濠集落が形成されてくる。 (武蔵村山市史上)

大規模な集落

・後期の武蔵野台地では、環濠集落だけでも現在二八遺跡で確認されてい るように、大規模な集落が爆発的に増加する。
・しかも、中期の環濠集落が武蔵野台地の縁辺部にしか営まれなかったのに対して、たとえば神田川水系では、中流域に新宿区の下戸塚遺跡、
 さらに上流域の善福寺川に杉並区の清美台、鎌倉橋上遣跡というように、 中小河川をさかのぼった中上流域にも環濠集落が営まれ、
 それらを拠点とする集落群が形成されるようになる。

柳瀬川でも新天地を求めて集落が進出

 こうした後期に中小河川の上流域に一気に集落が拡大する時期に、柳瀬川でも新天地を求めるように集落が多数進出するようになる。
 しかし、その状況は、柳瀬川をさかのぼっても、右岸では志木市の中野遺跡から新座市の新開遣跡まで、左岸では富士見市の観音前遺跡から新座市の西上遣跡 までというように、下流から約三キロメートルまでである。それより上流では、集落の分布は大きく変化し、いったん皆無とい ってよい状態となる。
 そして、再び後期後半の集落を認めることができるのは、十数キロメートルもさかのぼらなくてはならない。(東村山市史上p262)
・再び狭山丘陵に開発の手が伸びてくるのは柳瀬川の下流域からで、何らかの政治的圧力を感じた人びとがその延長線上で新たな場所を求めて上流に進出してき たものであろう。まず、埼玉県所沢市の東の上遺跡に進 出し、村落を形成していた。
・これらの土器をみていると弥生後期の弥生町式土器の特徴を残しながらも、つぎの古墳時代初期への橋渡しの時期の土器とも考えられる。(武蔵村山市史上)
・東の上遺跡に続くと思われる遺跡が日向遺跡である。遺跡は狭山丘陵の北陵の傾斜地にあって、その大部分は県立芸術総合高校の敷地となっているが、
 弥生後期に属する住居跡が一三軒発見されている。なかには拡張された住居もあり、その配置は丘陵の鞍部(五軒)と傾斜地(八軒)に別れて村落が形成されてい る。
・出土遺物の代表を一〇号住居跡にみると、雰囲気的には古墳時代初期の土器しかいいようがなく、東の上遺跡の土器とも微妙に異なっている。 
 住居跡もいっそう隅丸方形に近くなっているように思われる。 (武蔵村山市史上)
・畑作の代表が焼畑だと考えられて、それに野菜などを常畠で収穫していたものと思われる。弥生時代から古墳時代の石鍬を検出する遺跡を南関 東(埼玉・東  京・神奈川に伊豆半島)でみると、一八遺跡発見(図Ⅱ一42) されており、その時期も弥生中期から古墳時代前期に限られている。 (武蔵村山市史上p189)
・所沢市東の上遺跡、日向遺跡、武蔵村山市吉祥山遺跡、
・新宿・早稲田大学安倍球場(後期の環濠集落)
・八王子市・中郷遺跡(小銅鐸出土)97.09.25.読売