52
・池上曽根遺跡大型建物(年輪年代)
57
・倭の奴国王が後漢に朝貢し、光武帝より「漢委奴国王」の金印を授かる (漢書地理志)
107
・倭奴国王が後漢に生口160人を献ずる(後漢書 東夷伝)
◎この頃、イト国を盟主とするイト倭国が成立(福岡・井原鑓溝遺跡の王墓) (寺沢 王権誕生 年表)
(2016,03,02,朝日新聞 歴史2にスクラップあり)
146
・桓帝(146~167) ・霊帝(167~189)の間、倭国大乱という(ヤマト王権年 表)
167
・後漢王朝内部の腐敗と混乱。(党錮事件)
◎この頃、北部九州で祖霊が発展し首長霊誕生の兆し。
鏡を割る儀礼(福岡 ・平原遺跡一号墓〔最後のイト倭国王墓〕)(寺沢 王権誕生 年表)
178?
・倭国乱れる
184
・道教系太平道信徒らの一斉蜂起。(黄巾の乱)
◎この頃、キビで銅鐸のマツリが終焉。(岡山・高塚遺跡銅鐸埋納)(寺沢王 権誕生 年表)
・中平□年銘太刀(東大寺山古墳出土 ヤマト王権年表)
189
・袁紹(えんしょう)の宦官二千人を殺戮。董卓(とうたく)、洛陽を占拠。
◎「倭国乱れ相攻伐すること歴年」(『後漢書』東夷伝)
後漢王朝の衰退によって、イト倭国の権威失墜。均衡が破れて各勢力が並び立ち、倭国王不在の事態続く。
第二次高地性集落の後半期にあたり、 分布が東西に広がる。(大阪・東山遺跡)
キビ、イヅモ、タニワに巨大墳丘墓鼎立。
(四隅突出形方丘墓〔島根・西 谷三号墓、鳥取・西桂見墳墓群など〕、京都・赤坂今井墳丘墓)(寺沢 王 権誕生 年表)
204
・公孫康が楽浪郡を分割して帯方郡設置。
◎円丘の二方に突出部のつく前方後円墳の原型、特殊器台の誕生。
〈首長霊継承儀礼の誕生〉(岡山・楯築墳丘墓)(寺沢 王権誕生 年表)
210
・「倭韓遂に帯方に属す」(『魏志』韓伝)
・3世紀初~中 纏向石塚古墳の周濠は馬蹄形⇒
◎卑弥呼を倭国女王に共立し、「倭国乱」終わる。〈新生倭国ーヤマト王権 の誕生と都市(王宮)の発生〉(奈良・纏向遺跡の建設と庄内式土器の成立)
奈良盆地で拠点的母集落(環濠集落)が衰退、解体。銅鐸のマツリ終焉)。 (奈良・唐古・鍵遺跡衰退)
卑弥呼の公孫氏外交(東大寺山古墳〔奈良・四世紀中頃〕出土の「中平」 年銘の鉄刀)(寺沢 王権誕生 年表)
234
・公孫淵、魏より楽浪公に封じられる。
◎「青龍三年」銘方格規矩四神鏡(京都・太田南五号墳、大阪・安満宮山古 墳)(寺沢 王権誕生 年表)
238
・呉の赤鳥元年銘神獣鏡(鳥井原古墳出土 ヤマト王権年表)
239
・6月、卑弥呼が魏に遣使。大夫の難升米、次使都市牛利らを帯方郡に遣 わし、魏の明帝に朝献を求める。
・12月、魏の明帝より「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡100枚を授かる(『魏 志』倭人伝)(邪馬台国)(寺沢 王権誕生 年表)
・銅鐸などの青銅器が埋められる。
240
・この頃、高句麗の王都国内城魏によって陥落。
◎帯方郡太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯◎偶(ていしゅん)ら、詔 書・印綬を奉じ倭国に詣(いた)る。
錦・刀・「銅鏡百枚」などを賜わる。(画文帯神獣鏡や斜縁の神獣鏡を主体とした鏡か)(『魏志』倭人伝)(寺沢 王権誕生 年表)
243
・倭王、使者八人を魏に遣わし、生口・倭錦などを献上する。使者、印綬を受ける。(『魏志』倭人伝)
この頃、纏向遺跡に纏向型前方後円墳が築造され始める。
〈前方後円墳の 誕生と首長霊継承儀礼の完成〉(纏向勝山古墳、纏向矢塚古墳)(寺沢 王 権誕生 年表)
247
・倭の女王卑弥呼が狗奴国の男王卑弥弓呼との交戦を告げる。
魏の少帝、 塞曹(さいそう)の橡史張政(えんしちょうせい)らを派遣し、詔書と黄幢(おうどう)を難升米に賜わり、傲文をもって倭人に告喩する。
(魏 志倭人伝)(寺沢 王権誕生 年表)
248
・この頃、卑弥呼没。壱与が女王となる(『魏志』倭人伝)
・この頃、卑弥呼死す。径百余歩の冢(ちょう)を作り、奴婢百余人を殉 葬する。
男王を立てるが国中服さず、誅殺しあい千余人が殺される。卑弥呼の宗女で十三歳の台与(とよ)が女王となり国中安定する。
台与、 魏使張政らを送還し、魏帝に男女生口三十人などを献上する。(『魏志』倭人伝)(寺沢 王権誕生 年表)
・古墳時代(3世紀中葉~7世紀後半
・奈良県桜井市の纒向遺跡にある矢塚古墳(3世紀半ば)と東田(ひがいだ)大塚古墳(3世紀後半)で、墳丘の前方部が確認された。
前方後円墳の成立を解明する資料として注目。(07.04,13,読売)
・武蔵村山市吉祥山遺跡
・所沢市東の上遺跡
265
・司馬炎魏を滅ぼし、晋王朝起こる。
◎纏向型前方後円墳が各地で築造されはじめる。
台与政権終わり男王立つ。(纏向石塚古墳、纏向ホケノ山古墳)
狗奴国が失墜し、大量の土器が纏向にもたらされ、纏向型規格の前方後方墳がつくられる。(寺沢 王権誕生 年表)
266
・11月、倭の女王が西晋に遣使(『晋書』武帝記)
・この時、倭の使者、武帝即位最初の天の祭祀に初めて遭遇する。
◎この頃、定型化した巨大前方後円墳の築造が始まる。(奈良・箸墓古墳の築造)(布留式土器の成立)(寺沢 王権誕生 年表)
280
・西晋が呉を滅ぼし、天下を統一する。
◎この頃、三角縁神獣鏡の製作が本格的に始まり、定型化した前方後円墳が列島各地で造られ始める。
〈ヤマト王権の伸長"第二段階の画期〉(寺沢 王権誕生 年表)
291
・元康元年銘神獣鏡(伝上狛古墳出土 ヤマト王権年表)
313
・高句麗、楽浪郡を併合、帯方郡滅亡。
◎奈良盆地の東南部に大王墓や大形前方後円(方)墳が次々に築造される。 (寺沢 王権誕生 年表)
350
・このころ倭国の統一(大和朝廷の成立)、崇神天皇 (年表にみる多摩p11)
364
・百済人久氏ら、弁韓諸国を訪ね、倭国との通交の仲立ちを願う。(紀・神 功紀)
◎倭国、朝鮮半島介入でしだいに帝国主義的色彩を帯びはじめる。
佐紀古墳群の造基開始。(五社神古墳〔現神功皇后陵〕)
沖ノ島祭祀、三輪山祭祀などの王権の祭祀が本格化する。 (寺沢 王権誕生 年表)
◎4世紀後半 須恵器作り始まる 京都府宇治市⇒
366
・倭国の斯摩宿禰(しまのすくね)、卓淳国へ行き、使者を百済に送る。
百済の肖古王、使者に五色の◎繰衣(しみのきぬ)各一匹・角弓箭(つの ゆみや)・鉄(ねり)かね四十枚を賜う。(『紀』神功紀)
◎この頃より、倭国、朝鮮半島情勢に政治介入始める。 (寺沢 王権誕生 年表)
367
・百済・新羅朝貢す。その際、新羅が百済の貢物を奪ったため、新羅を攻 める。(『紀』神功紀)(寺沢 王権誕生 年表)
369
・倭・百済の連合軍、新羅を破る。百済王、朝貢を約す。(『紀』神功紀)
・高句麗、百済を攻めて敗れる。(『三国史記』)
◎この頃奈良・馬見古墳群の築造が始まる。(寺沢 王権誕生 年表)
372
・百済の肖古王、久氏らを遣わし、七枝刀(ななつのさやのたち)一口、 七子鏡(ななつこのかがみ)一面を献る。(『紀』神功紀)
◎(東晋泰(たい)〔太〕和四年〔三六九〕四月十六日の紀年銘をもつ七支刀〔奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮蔵〕(寺沢 王権誕生 年表)
391
・倭がしばしば海を渡って半島にやってきて、百残(百済)・新羅を「臣民」とする。(好太王碑文)
◎この頃より、葛城氏が王権の外戚として台頭し始める。(奈良・巣山古墳、築山古墳) (寺沢 王権誕生 年表)
396
・広開土王、みずから倭の「臣民」となった百残を討つ。(好太王碑文)
◎この頃大阪・古市古墳群の築造が始まる(大阪・津堂城山古墳)(寺沢 王 権誕生 年表)
399
・百残が倭と和通したので、広開土王は平壌まで南下して百残にそなえる。
また新羅国内に倭兵が侵入しているという訴えを聞いて、新羅の救援 約束する。(好太王碑文)
◎4世紀後半に,多摩西部の諸集落は,多摩川下流域の広い水田をもつ富裕な勢力の支配下に入ったらしい。
(大規模な方形周溝墓は,八王子椚田第Ⅱ遺跡にみられるが、つづく時期の古墳は発見されていない)(年表にみる多摩p11)
400
・倭軍、高句麗の攻撃により新羅より撤退(好太王碑文)
・新羅救援のため五万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅(金官国) まで追撃する。
・狛江市和泉などに村が発達(年表にみる多摩p11 )
404
・倭軍、帯方郡に出兵、高句麗に敗北(好太王碑文)
・倭の水軍が伴鵠を西海岸ぞいに北上し、帯方界にまで侵入したので、広 開土王はみずから兵を率いて、迎撃し、倭に潰滅的な打撃を与える。
◎391~404の高句麗軍の南下により、戦乱を避けたり、軍事援助の見返りとして半島から多くの人や物がもたらされた。(熊谷 大王から天皇へ p045)
413
・倭国讃、東晋に貢物を献上(『晋書』)
414
・朝鮮の高句麗で、好太王碑が建てられる。
421
・倭国讃が中国の宋に朝貢・上表する(倭の五王)。425年か?
425
・倭王讃、司馬の曹達を遣わし、国書と信物を献上する。
430
・倭国王(讃か)、遣使朝貢する。
438
・倭王珍、遣使朝貢し、自ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・ 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称して、
その除正(正式な任命) を求めるが、安東将軍・倭国王に任じられる。
また倭王の臣下の倭隋ら 十三人に、平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号の除正を求め、認められる。 (『宋書』)
・大阪府で須恵器の生産が始まる。また、近畿地方の鉄器生産が盛んにな る。
443
・倭王済、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(『宋書』)
451
・倭国王済、安東将軍に使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事を加えられ、
倭王の臣下の二十三人が申請どおり軍・郡(将軍 号と郡太守号)を授かる。
460
・倭国、遣使朝貢する。
462
・倭王珍・斉・輿が中国の宋に朝貢する。安東将軍倭国王とされる(倭の五王)。
471 古墳時代中期
・埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に「乎獲居臣」(オワケオミ)と記した銘が見られる。
辛亥年「乎獲居臣」は足立郡司の丈部直氏との間に深い関係があるのではないか。(平将門の乱 川尻秋生 p76)
475
・高句麗が百済の都の漢城を陥落させ、百済は南の熊津(ゆうしん)に都を移し、かろうじて国を再興。⇒◎渡来の第2ピーク。(熊谷 大王から 天皇へp052)
477
・倭国王(武か)、遣使朝貢する。
478
・倭王興の弟・武、自ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓 ・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、
遣使して上表し、自称の開府儀同三司と他の官爵の除正を求める。
百済を除かれ、使持節・都 督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任じられる。(『宋書』)
479
・雄略天皇没。大王権をめぐる争い激化(『書紀』)
503
・癸未年銘人物画像境(隅田八幡神社 ヤマト王権年表)
507(継体元)年
・武烈天皇崩御
・2月4日、越前の男大逝王、大伴金村らに擁立され、河内の樟葉宮(くずは らのみや)で即位(継体)。
508 (継体2)年
・武烈を大和の片岡に葬る(ヤマト王権年表)
509 (継体3)年
・カナ在住の百済の百姓を百済に戻す(ヤマト王権年表)
511(継体5)年
・10月、山背筒城宮へ遷都。
512(継体6)年
・4月、継体天皇が百済へ使者、指導者の派遣を願う
・12月、任那四県(上◎略剛・下◎略剛・娑陀・牟婁)を百済に割譲する。
513(継体7)年
・6月、五経博士、百済より来日。
・11月、任那の己◎波・滞沙を百済に割譲する。
515(継体9)年
・4月、倭国、半島に出兵するが、帯沙江で◎伴破軍に敗退。
518(継体12)年
・3月、弟国宮へ遷都。
526(継体20)年
・9月、磐余玉穂宮へ遷都(奈良県桜井市)。
527(継体21)年
・6月、筑紫磐井、反乱を起こす(磐井の乱)。
百済を救援する筑紫君盤井が中九州の豪族や新羅と手を結び争う。
528(継体22)年
・11月、筑紫磐井の反乱を物部鹿鹿火が鎮圧。
・12月、磐井の子筑紫君葛子、糟屋屯倉を献上する。
・埼玉県の豪族・笠原直使主と同族の小杵が、ヤマト王権や群馬県の上毛 野氏と手を結び争う(日本書紀の伝承 古代武蔵の国府と国分寺を掘る 年表)。
529(継体23)年
・3新羅の金官国侵略を阻止するため、近江毛野を安羅に派遣する。
530(継体24)年
・近江毛野、暴政を報告され大王に召還されるが、対馬で病死する。
531(継体25)年
・2月、継体、没する(82歳)。
532
◎謎の空位 倭王権内部で何らかの政変があった。(熊谷 大王から天王へ p141)
533
◎謎の空位 欽明・安閑・宣化の王統が並び立ったとして「両朝並立」説などがある。(熊谷 大王から天王へp141)
534 (安閑元)年
・1月、大倭国勾金橋宮へ遷都。
・武蔵国造笠原使主が同族の小杵と国造の地位を争う(日本書紀の伝承)。 =大和王権武蔵の国造の内紛をおさめる。(日本書紀上p373)
535 (安閑2)年
・5月、諸国に屯倉をいっせいに設置する。
◎屯倉設置にともない、渡来人の入植が図られる。(森田 古代東国p77)
・12月安閑、没する。宣化、即位。
536(宣化元)年
・1月、槍隈廬入野宮へ遷都。
537 (宣化2)年
・10月、新羅任那へ派兵する。
538(宣化3)年
・仏教伝来 欽明天皇7年百済聖明王(せいめいおう)が教巻と金銅の釈 迦像一体を贈ってきた。
(上宮聖徳法王帝説、元興寺=がんごうじ縁起)。 (552年説=日本書紀)
・崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)に別れ、天皇採否を図りかね、蘇我氏 が自宅に安置
539(宣化4)年
・2月、宣化、没する。
・12月、欽明、即位する。
540(欽明元)年
・7月、磯城嶋金刺宮へ遷都。
・9月、物部尾輿、任那四県割譲問題で大伴金村を非難し、金村は失脚する。
550
・「日本語を、語るままに表記しようという試みが始まったのは、6世紀中ごろ。
大和朝廷が近代化を目指した欽明、推古朝のころ、大量の行政文 書が必要になったのが背景にある」
当初、行政文書は渡来人か一部の書記官が漢文で書いていたとみられるが、大量の文書が必要になったとき、多くの役人に正式の漢文を勉強させるより、
日本語を漢字で書く方法がすでにあったのを活用した方が効 率的だと判断されたのだろう。(06.01.23.読売新聞記事)
552(欽明13)年
・10月、百済の聖明王により仏教公伝(壬申年=一説に538年)。蘇我稲目 ら崇仏派と、物部尾輿ら排仏派との間に対立が起きる。
554(欽明15)年
・2月、五経博士・僧の交替者、易・暦・医博士らが、百済より来日。
・百済の聖王(聖明王)、新羅の管山城で戦死する。
555(欽明16)年
・7月、吉備に白猪屯倉設置。
556(欽明17)年
・7月、備前児嶋郡に屯倉設置。
・10月、倭国高市郡に韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉を設置。紀国に 海部屯倉を設置。
562(欽明23)年
・新羅が伽耶を攻め、任那が滅亡する。
・新羅、大加耶を滅ぼす。
・関東各地方で人物埴輪などの埴輪が、盛んにたてられる。埴輪生産の最 盛期。
569(欽明30)年
・1月、白猪屯倉の田部(屯倉の農民)の丁籍を検定する。
570 (欽明31)年
・1月6日、福岡市西区の元岡古墳群10で、西暦570年とみられる「庚寅」(こういん)の干支(えと)と、「正月六日」の日付が刻まれた鉄製大刀を発見。
554年百済から暦博士来日の日本書紀の記述を裏づける。 (2011,09,21朝日新聞夕刊)
◎「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(□は「練」の可能性)の19字が、1文字5~6ミリ四方の大きさで約12センチにわたり見つかった。
表面を細い溝で刻み、中に金か銀とみられる文字を作っていた。 日本製の可能性が高い。
◎大刀の性格について、福岡市教委の菅波正人係長は、古墳の場所に注目する。一帯は当時、日本が朝鮮半島に軍を派遣した際の根拠地だった。
古墳からは今回12センチの銅製の鈴も出土しており、古墳時代では国 内最大級。大きな権力を持った被葬者の存在を示す。
「大和政権が、関係が深かった地元の有力豪族に授けた大刀だったのでは」と指摘する。
◎坂上康俊・九州大教授(日本古代史)は「大和政権の九州支配強化のためではないか」と想像する。
これに対し、平川館長は「朝鮮半島に近く、当時の高度な技術が北部九州にはあった。
それを基に地元の有力者が大刀に銘文を刻んで残す文化があったのだろう」と推測する。(2011,09,21毎日新聞)
571(欽明32)年
・4月、欽明、没する。
572(敏達元)年
・4月、敏達、即位。百済大井を宮とする。
・5月15日、誰も読めなかった高麗からの国書を王辰爾が読み解いた。(日本書紀下p57)
◎所沢市海谷古墳、狭山市上広瀬古墳第8号墳に類例=6世紀後半
574(敏達3)年
・10月、吉備国に白猪屯倉・田部を増置。田部の名籍を作成する。
575(敏達4)年
・この年、訳語田幸玉宮をつくる。新羅、「任那の調」を献上する。
577(敏達6)年
・2月1日、日祀部、私部(きさいべ)を置く。
・11月1日、百済国王が経論若干、律師、禅師、比丘尼、呪禁師(じゅこんのはかせ)、造仏工(ほとけつくるたくみ)、造寺工の六人を献上 (日本書紀下p61~62)
581(敏達10)年
・10月、蝦夷、反乱を起こす。族長綾糟(あやかす)らが来朝し王権への 忠誠を誓う。
584(敏達13)年
・百済から弥勒の石像が贈られてきた。蘇我馬子が貰い受け自宅に祀る。蘇我馬子、善信尼(司馬達等の娘)らを出家させる。
585(敏達14)年
・8月、敏達、没する。
・9月、用明、磐余池辺双槻宮に即位。この年、崇仏派の蘇我馬子と、排 仏派の物部守屋との間に対立が起きる。
586(用明元)年
・5月、穴穂部皇子、炊屋姫皇后(後の推古天皇)を姧そうと、敏達の殯宮 へ侵入するが、敏達の寵臣である三輪逆によって阻止される。穴穂部皇 子は物部守屋と謀り、三輪逆を斬る。
587(用明2)年 飛鳥寺建立
・4月、用明天皇没 方墳
・6月、穴穂部皇子、即位を謀るが殺害される。
・7月、蘇我馬子、泊瀬部皇子ら諸皇子・群臣と物部守屋討滅を謀る。厩戸皇子が四天王寺造営を誓い、物部守屋を滅ぼす。
・8月、崇峻、即位。倉梯を宮とする。
・蘇我馬子、飛鳥寺建立発願
・崇峻天皇3年(590)山に入って寺の材を取る
・崇峻天皇5年(592)仏殿と歩廊を起す
・592年、推古天皇が飛鳥の豊浦宮(とよらのみや)即位する。
・推古天皇元年(593)仏含利を納める
・推古天皇4年(596)飛鳥寺=法興寺造りおわる
588(崇峻元)年
・この年、仏舎利・僧・寺工・鑢盤博士・瓦博士・画工が百済より献上さ れる。飛鳥寺(法興寺)を造り始める。
589 (崇峻2)年
・中国の隋が陳を滅ぼし、統一する。
592 (崇峻5)年
・11月、蘇我馬子、東漢直駒に崇峻を殺害させる。駒は馬子の娘を盗み妻としたため、馬子に殺される。
・12月、推古、豊浦宮で即位。
593(推古元)年 飛鳥時代開始
・飛鳥寺の塔心礎の発掘調査が行われ、593年(推古元)に仏舎利ととも に埋納された遺物が発掘された。
・4月、厩戸の皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となる。
・四天王寺建立
・飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終期と重なるが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す
・710年、平城京遷都まで
594(推古2)年
・2月、三宝(仏・法・僧)興隆の詔を出す。
595 (推古3)年
・高麗の僧・慧慈(えじ)が来朝、翌年、法興寺(飛鳥寺)に入る。
・本蓮寺(藤沢市)、高麗の帰化僧「恵慈(えじ)」の弟子「義玄上人」によって開 山したと伝える。
◎稲城市大丸窯跡群1号窯は飛鳥寺瓦窯に近似。中央から技術者が派遣され、築窯した可能性がある。
596(推古4)年
・11月、蘇我氏が建てた法興寺(飛鳥寺)完成、慧慈が入る。
・全国的に前方後円墳の築造が停止する。代わって、一部の地域で大型方墳・円墳が出現する。
597(推古5)年
・11月、新羅に遣使する。
600(推古8)年
・この年、任那回復のため新羅に派兵する。
・倭国王が隋に使者を送る(遣隋使)。
・600年前後、古墳時代後半期に、狭山丘陵やその周辺に竪穴にかまどを付けた粗末な住居が発掘される。
・東大和市では多摩湖第七遺跡、鹿島台西遺跡で土器片を発見
601(推古9)年
・2月、聖徳太子、斑鳩宮をたてる。
602(推古10)年
・2(~6)月、新羅征討を計画するが、将軍(来目皇子)の病気で中止される。
・10月、百済僧観勒、暦本・天文地理書・遁甲方術書を献上し、書生に教 える。
603(推古11)年
・10月、小墾田宮へ遷る。
・11月、秦河勝、蜂岡寺(広隆寺)を造る。
・12月、冠位十二階を制定する。
604(推古12)年
・4月、憲法十七条を制定する。
・9月、朝廷での礼儀を改める。
605(推古13)年
・4月、推古、丈六仏像の造立を発願し、鞍作鳥に命じて造らせる。
606(推古14)年
・飛鳥寺の飛鳥大仏制作か?(藪内佐斗司p30)
・4月、丈六仏像が完成し、元興寺(飛鳥寺)金堂に安置する。
607(推古15)年
・2月、壬生部を定める。(日本書紀)⇒東国への壬生部設定=壬生吉志 (森田 古代東国と大和政権p101)
・7月、遣隋使(小野妹子ら)をおくる。国書(「日出る処の天子…」)を持 参。この年、国ごとに屯倉を設置する。
・推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、寺とその本尊「薬師如来」を造られた。=法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれている)
608(推古16)年
・4月、小野妹子が階使袈世清とともに帰朝する。
・8月、隋使、入京する。
・9月、小野妹子らに隋使を送らせ、あわせて高向玄理・僧旻・南淵請安 らを隋へ派遣する。
609(推古17)年
・9月、小野妹子ら帰朝する。
610(推古18)年
・3月、高句麗僧曇徴、絵具・紙・墨・碾磑(水力を利用した臼)の製法を 伝える。
・7月、新羅・任那使が来日する。
・10月、入京し、使旨奏上、饗を受けて帰国。
611(推古19)年
・隋、三回にわたる高句麗遠征をおこなう(~614)。
612(推古20)年
・技楽を百済の人が日本に伝える。(藪内佐斗司p26)
613(推古21)年
・11月、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波と京の間に大道を置く。
・12月、聖徳太子、片岡で飢者を助ける。
614(推古22)年
・6月、遣階使(犬上御田鍬ら)をおくる。
615(推古23)年
・9月、犬上御田鍬ら帰朝する。百済使が来日する。
・11月、百済使を饗する。
618
・隋に代わり唐(律令制)の建国
620(推古28)年
この年、聖徳太子・蘇我馬子が、天皇記・国記などをつくる。
622(推古30)年
・2月、聖徳太子、没する。
623(推古31)年
・この年、新羅へ出兵。
・法隆寺の釈迦三尊 聖徳太子の病気平癒を祈念 聖徳太子と等身大。
・大阪市・塚穴古墳は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのこうし)の墓と考えられている。7世紀前半(06.01.20.朝日新聞)
624(推古32)年
・4月、僧正・僧都・法頭を任じる。
・9月、寺・僧尼を調査する。
・10月、蘇我馬子、葛城県を要求するが、推古は拒否する。
626(推古34)年
・5月、蘇我馬子、没する。桃原墓(石舞台古墳といわれる)に葬られる。
628(推古36)年
・3月、推古天皇没 方墳
629(舒明元)年
・1月、舒明、即位。
630(舒明2)年
・第一回遣唐使(犬上御田鍬ら)出発
・10月、飛鳥岡本宮へ遷る。(舒明天皇)630~636
632(舒明4)年
・8月、犬上御田鍬・僧旻ら帰朝する。唐使が来日する(翌年1月帰国)。
633(舒明5)年
・舎人・物部連兄麿(もののべむらじえまろ=兄麻呂)が武蔵国造(むさしのくにのみやっこ)に任命される(原島礼二 古代東国の風景 P92-95)
行田市若小玉古墳群の八幡山古墳を兄麻呂の墓とする(原島礼二)
636(舒明8)年
・6月、岡本宮が火災。舘明は田中宮へ遷る。この年、大飢謹。
637(舒明9)年
・この年、蝦夷が反乱をおこす。上毛野君形名が征討する。
638(舒明10)年
・この年、百済・新羅・任那が朝貢する。
639(舒明11)年
・7月、百済宮・百済大寺(吉備池廃寺といわれる)を造営する。
640(舒明12)年
・10月、南淵請安・高向玄理、帰朝する。百済宮へ遷る。
641(舒明13)年
・3月、山田寺を造り始める。
・10月、舒明天皇没 三段の方形に八角形の墳丘
642(皇極元)年
・1月、皇極、即位。11新嘗祭(大嘗祭)をおこなう。
・12月、小墾田宮へ遷る。この年、蘇我蝦夷とその子入鹿、祖廟や今来双 墓を造り、権勢をふるう。
643(皇極2)年
・飛鳥板蓋宮へ遷る。(皇極・斉明天皇)643~655
・11月、蘇我入鹿、舘明の子である古人大兄皇子の即位を謀り、聖徳太子 の子である山背大兄王らを襲い、自殺させる。
644(皇極3)年
・11月、蘇我蝦夷・入鹿、甘橿岡に家を建て、守備を固める。
645(大化元)年 孝徳
・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり= 鎌子)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)ら蘇我 蝦夷・入 鹿を亡ぼす、大化の改新。
石川麻呂は蘇我氏の傍系で中臣鎌足が仲間に引き入れるため石川麻呂の長女を中大兄の后にすることを提案、中大兄同意。
ところが、長女は一 族の蘇我日向(そがのひむか)に連れ去られてしまう。
・やむなく、代理として、石川麻呂の次女が、自ら志願して嫁いだ。
後の 天智天皇の后の遠智娘(おちのいらつめ)、持統天皇の生母。
・6月、石川麻呂が「三韓」の国書を大王の前で読む。予定通り討ち手が来ないので、石川麻呂は震える。
見かねて、中大兄が入鹿を切る。
・翌日、蝦夷が自殺 蘇我大臣家は崩壊する。
・翌日、皇極女帝は退位し、弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となる。中大兄 皇子は皇太子として実験を握る。
年号を「大化」とする。
・8月、穂積昨ら 8 人、東国への国司派遣
倭王権の派遣した使者(ミコトモチ)であった。ここで国造の支配単位であるクニを解体して「評」 が置かれた。
武器の収公が行われた。
・新政府は、伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発(あらち)関の三関で東国と西国に分けて使者を遣わし、
人口や土地、国造の支配状況、武器所有の実態などを調査した。
この結果に基づいて地方支配機構の改革が推進される中、政府は地域ごとに境界を定め、
大和政権以来の国造に変わるものとして評(こおり)を置き、地方の再編に着手した。
・東国国司が発遺される。
・大型古墳が八角墳へと変革し、大王墓だけとなる。
・畿内を中心に、各地に古代寺院が建立される。
・12月、難波に遷都
難波津という古代におけるわが国きっての国際港を擁し、その当時すでに外交や流通の中心として重要な位置にあったことによる
646(大化2)年
・1月、改新の詔。公地公民制・地方制度・班田収授法・税制を定める。
・3月、薄葬令が出され、古い習俗の廃止を命じる。
・8月、品部の廃止を命じる。
・武蔵国多摩郡の成立
647(大化3)年
・難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に小郡宮(おごうりのみや =外交使節用の施設)が完成、その後、648年頃、前期難波長柄豊碕宮 の造営が始まり、651年(白雉2)~652年に完成(大王から天皇へp273)
・この年、七色十三階の冠位を制定する。淳足柵を造る。新羅、金春秋(の ち武烈王)を遣わす。
648(大化4)年
・この年、磐舟柵を置く。
・難波宮跡から「戌申年」木簡出土。これにより、遅くともこの年までに 前期難波宮の建設が開始されたことは事実であり、何らかの形で改革(大化の改新)が行われたことが実証される。(熊谷 大王から天王へp273)
649(大化5)年
・2月、冠位十九階を制定する。
・3月、右大臣蘇我倉山田石川麻呂、謀反の疑いをかけられ、山田寺へ逃 げるが、自害する。
◎東国の評の設置(常陸国風土記)
650(白雉元)年
・2月、白雉に改元。 650~675年代(7世紀第3四半期)
・東山道武蔵路の敷設
・東の上遺跡は「駅」関連遺跡か?
・府中市熊野神社古墳(上円下方墳)7世紀中葉の築造と考えられている (新版府中市の歴史p91)
652(白雉3)年
・9月、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)完成
・現在の大阪市中央区に652年~655年までの間にあった。
大化の改新の後、中大兄皇子らが企画して造営され652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。
・その後、同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた(後期難波宮)。
653(白雉4)年
・5月、遣唐使をおくる。
・この年、中大兄、孝徳と不和により、辺行宮へ移る。
◎東国の評、分割、設置(常陸国風土記)
654(白雉5)年
・2月、遣唐使をおくる。
・10月、孝徳、没する。7前年の遣唐使が帰朝する。
655(斉明元)年
・1月、斉明天皇が飛鳥板蓋宮で即位(重祚)
・8月、遣唐使帰朝する。この年、飛鳥板蓋宮が火災、飛鳥川原宮に遷る。
656 (斉明2)年
・後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや 斉明天皇)へ遷る。656~667
・多武峰に両槻宮を造り、「狂心渠」を掘って石を運び、宮の東の山に積む。
658(斉明4)年
・4月、阿部比羅夫津軽の蝦夷を水先案内にして秋田に来航、鰐田・淳代の蝦夷を服属させる。
・11月、狂人を装っていた有馬皇子(孝徳の子)が、蘇我赤兄の計略により、謀反の罪で捕らえられ処刑される。
659(斉明5)年
・3月、阿倍比羅夫、蝦夷を征討する。また、飛鳥の須弥山像のもとで蝦夷を饗応する。
・7月、遣唐使をおくる。
660(斉明6)年
・3月、阿倍臣、渡嶋蝦夷を服属させ、粛慎を征討する。
・5月、中大兄皇子、漏剋(水時計)を作る。
・10月、百済の鬼室福信ら、百済の救援と王子余豊璋の即位を求める。
・7月18日、百済滅亡
661(斉明7)年
・1月、斉明、百済救援のために難波をたつ。・3月、娜大津(博多)に着く。
・5月、遣唐使帰朝する。
・7月、斉明、朝倉宮(福岡県)に没する。中大兄、称制する。
・9月、百済王子豊璋を本国へ送る。
662(天智元)年
・この年、百済救援のための兵甲・船舶・軍粮を準備する。
663(天智2)年
・3月、新羅を討つため、二万七千の軍を派遣する。
・8月27日、・日本・百済軍、新羅・唐軍と白村江で戦い大敗。
白村江の戦い=◎渡来第3のピーク
◎あきる野市瀬戸岡古墳群7世紀後半
664(天智3)年
・2月、冠位二十六階を制定する。氏上・民部・家部のことを定める(甲子の宣)。
・5月、百済鎮将、郭務檬を遣わす。
・この年、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国などに防人・蜂(のろし)を置き、筑紫に水城を築く。(日本書紀下p226)
665(天智4)年
・8月、長門国に城を、筑紫国に大野城・橡城を築く。
・9月、唐使劉徳高らが来日する。
・
牽牛子塚の築造時期は665~67年 奈良県明日香村「真の斉明天皇陵」=牽牛子塚(けんごしづか)古墳 朝日2015年8月6日
666 (天智5)年
・10月26日、高麗から使者が来て調をたてまつった。使者は臣乙相(まえつきみおっそう)、二位玄武若光などである。(日本書紀下p228)
・この冬、百済の男女2000人を東国に住まわせた。百済の人々に対して、僧俗を選ばず3年間、国費による食を賜った。(日本書紀下p228)
◎軍事態勢強化の中で官道整備が行われ、技術集団として百済の人々が築造に当たった。(森田 古代東国p160)
東山道武蔵路の敷設=650~675年代(7世紀第3四半期)
◎この頃、多摩寺が創建された。(府中市パンフレット武蔵国府跡)
667(天智6)年
・3月19日、中大兄 近江大津宮に遷都。この時、天下の人民は遷都を喜ばず、諷諫(ふうかん)する者が多かった。(日本書紀下p229)
・11月、倭国高安城・讃吉国山田郡屋嶋城・対馬国城を築く。
668(天智7)年
・1月、天智、即位。一説に、この年、近江令制定。
・5月5日、天智天皇と額田王が歌を詠む
・高句麗滅亡
669(天智8)年
・10月、天智、中臣鎌足に大織冠・大臣位を授け、藤原の姓を賜う。鎌足、没する。この年、遣唐使をおくる。
670(天智9)年
・2月、全国的な規模で戸籍編成=庚午年籍(こうごねんじゃく)、(はじめての全国的戸籍、後の基本台帳となる)を造る。
・4月、法隆寺が火災。
671(天智10)年
・1月、太政大臣(大友皇子〔天智の子〕)・左右大臣・御史大夫を任じる。
・4月、漏剋をはじめて用いる。
・10月、病身の天智、弟大海人皇子に後事を託すが、大海人皇子は固辞し て出家、吉野へ行く。
・11月、唐使郭務惇ら来日する。大友皇子、左右大臣らと天智の意をつぐ ことを誓う。
・12月、天智、没する。方形墳の上に八角形の墳丘=八角下方墳
672(天武元)年
・6月、大海人皇子、吉野をたち、美濃で兵士を徴発して不破に本営を置 く。(壬申の乱)
・7月、大海人軍、各地で近江朝廷軍を破り、近江朝廷滅亡する。この年の冬、飛鳥浄御原宮を造営する。
大君は 神にしませば 天雲の
雷の上に 盧(いほ)らせるかも 巻3 235 柿本人麻呂
・9月、大海人皇子、飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営
673(天武2)年
・2月27日、大海人皇子即位、天武天皇となる。飛鳥浄御原宮。
後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや 斉明天皇)656~667の内 郭をそのまま利用
・天武天皇は律令国家建設に向けさまざまな改革を断行した。
八色(やくさ)の姓(かばね)の制定、豪族所有民の廃止、地方の国境 の確定、日本初の鋳造貨幣の発行など。
・飛鳥浄御原宮 672~694 範囲確定(070207読売)
676(天武5)年
・諸国の国造に大解除の用物を輸させる
・諸国に放生を命ずる
・諸国に金光明経などを説かせる
679(天武8)年
・「観世音経」と記された木簡が出土、奈良県明日香村の石神遺跡
観世音経(観音経)の存在を示す最古の資料、天武天皇の病気平癒のた め同経を読ませたという「日本書紀」の記述からうかがえる。→
680(天武9)年
・初めて金光明経を宮中及び諸寺に講説させる。
681(天武10)年
・「天武天皇が内安殿に皇族、外安殿に諸臣を引き入れて、酒を飲ませ、舞 楽を見せた」(日本書紀)
・天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令された
683(天武12)年
・12月13日、諸王五位の伊勢王(いせのおおきみ)・大錦下羽田公八国(は たのきみやくに)・小錦下多臣品治(おおのおみはんじ)・小錦下中臣連大嶋と判官(三等官)・録史(ふびと 四等官)・工匠(たくみ)などを遣わし、全国を巡行し、諸国の境界を区分させたが、この年区分はできあがらなかった。(日本書紀 下p296)
7世紀末~8世紀初頭
・熊野神社古墳が7世紀中頃から後半に築造される。上円下方墳
・武蔵国府の「まち」の成立
・武蔵国府創建(掘立柱建築)→礎石建物
684(天武13)年
・5月14日、帰化を望んできた百済の僧尼・俗人男女 23人を武戯国に住 まわせた。初めて武蔵国が登場する。
・10月3日、伊勢王らをつかわせて諸国の境界を定めさせた。(日本書紀 下p298)(古代武蔵国府p99)
685(天武14)年
・諸国の家ごとに仏合を作り、仏像・経巻を安置し、礼拝、供養させる。
・天武天皇 飛鳥浄御原宮の大安殿で諸王を招き入れ、すごろくなどの遊戯に興じさせる。
・天武朝の記述にはしばしば、臣下とともに音楽や舞を楽しむ大規模な「宴」が登場する。
・7月、『日本書紀』天武十四年(六八五)七月辛未条に「東山道は美濃より以東、東海道は伊勢より以東の諸国の位有らむ人等に、並に課役を免せ」
とみえて、東山道がこの時期から行政区分として存在していたことを示す史料と符号するものである。
東山道武蔵路の造成=七世紀第3四半期(東村山市史上p341)=七道制が完了(律令国家と万葉びとp310)
・10月17日、伊勢王らは、また東国に向かうので衣・袴を賜った。(国界 画定事業の継続か) (日本書紀 下p304)
687(持統元)年
・4月10日、筑紫大宰が、自ら帰化してきた新羅の僧尼と百姓の男女二十 二人をたてまつった。
武蔵国に居らせて土地食糧を給され、生活できる ようにされた。(日本書紀 下p315)
689(持統3)年
・6月、飛鳥浄御原令頒布・制定
・那須国造碑に、この年、新たに評督(評の長官)に任命された事が記載 される。(国立市史通史編1p230)=評制の成立
690(持統4)年
・2月25日、帰化した新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら12人を、武蔵国に住まわせた。(日本書紀 下p324)
692(持統6)年
・京師・四畿内で金光明経を講説させる。
693(持統7)年
・百姓に黄衣、奴ひに黒衣を着させる
694 (持統8)年
・金光明経を諸国に頒ち、毎年正月に読経させる。
・飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)から藤原京に遷都 694~710。
◎藤原京から発掘された木簡には「无耶志国」と書かれている。
◎藤原宮跡から「□玉評大里評」という墨書瓦が出土していることから、 当時、武蔵国でも国評制が施行されていたと考えられる(国立市史年表)
696(持統)年
・金光明経講読のため、毎年12月に浄行者10人を得度する。
698(文武2)年
・3月10日、諸国の郡司を任命した。(続日本紀上p18)
700(文武4)年
・那須国造碑が建てられた。(国立市史通史編1p230)
・諸国に牧地を置き、牛馬を放牧する(国立市史年表)