2020年2月原稿

2020年2月原稿

奈良橋村の教育熱 2020年2月1日原稿

奈良橋村の教育熱
         文 素っ頓狂
「ここにその学校があった
 んですね」 
「凄いエネルギーですね」
 奈良橋の雲性寺の境内で(うんしょうじ)
す。明治二十四年(一八九
一)、北多摩郡長から、村
の学校を統合せよとの半ば(とうごう)
命令的な案が出されまし
た。「法令により、昇隆と(しょうりゅう)
高狭の二校にすべきであ(たかさ)
る」とのことです。当時は
芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、(いもくぼ)(ぞうしき)(たかぎ)
狭山、清水の六つの村があ(さやま)(しみず)
って「高木村外五ヶ村組合(たかぎむらほかごかそんくみあい)
村」を構成していました。 
 学校は、芋窪に昇隆、奈
良橋に奈良橋、狭山に高狭
の三校を設けて各地域から
通学していました。財政が
厳しく運営が大変でした。
 奈良橋村の人々は「到底(とうてい)
受け入れられない」と反対
しました。権限の強い郡長
は、「それはならぬ」と陰
でけしかけます。村々は困
りました。時間がたち、郡
長の怒りの声は高まりま
す。切羽詰まった時、奈良(せっぱ)
橋村から「それなら、奈良
橋村で自分たちの学校の費
用を持つ、だから今まで通
りにしよう」と提案があり
ました。村々の代表に郡長
の顔が浮かびます。「でも、
学校を減らすのは良くな
い。よし、奈良橋村の意
見を入れよう」ときっぱり
めて、郡長に自分たちの意
志を伝えました。
 結果、五ヶ村組合村で三(ごかそんくみあいむら)
校を運営し奈良橋学校分の
費用は奈良橋村の人々が負
担しました。大変だったと
思います。やがて、大和村(やまとむら)
になって、村の中央に現在
の第一小学校が置かれまし
た。その前身の話しです。

2019年12月1日原稿

大和村百年の蔵      (くら)
       素っ頓狂
「この蔵って百年もたって
 るの・・・」「ホント?」
「信じられない!」
 子どもさん達からきつい
葉が返ってきます。高木
神社の東側、神社と社務所
の間の倉庫の前です。「こ
れは大和村役場の倉庫で、
百年前、いや、もっと前か
らあったんだ」と説明した
途端です。       (とたん)
 
 東大和市は、大正八年(一
九一九)十一月一日、「大
和村」になりました。それ
までは、芋窪村、蔵敷村、(いもくぼむら)(ぞうしきむら)
奈良橋村、高木村、狭山村、(さやまむら)
清水村の細長い、境界の激
しく入り交じった六つの村
でした。国からは合併を迫
られました。独立志向旺盛
な村々はそれを拒否し、学
校や道路、伝染病など共通
の仕事をするため、「高木
外五ヶ村組合村」を構成
して対処していました。
 そこに学校問題が浮上し
ました。当時、小学校は芋
窪(現豊鹿島神社社務所)、
奈良橋(雲性寺境内)、狭山
(現狭山公民館)にありまし
た。児童数が多く、二部授
業や仮教室での対応です。
成績も思わしくなく、新し
く中央に学校を新設するこ
とになりました。建設費の
七五%を借金で賄わなくて
はならない見通しです。
 一方、村山貯水池の建設
による困難を極めた移転が
ほぼ完了し、村には新たな
空気が芽生えていました。
 村々は次の時代へ「大き
く和す」を目指し、大和村
(旧村名は大字として残す)
になりました。その時の役
場の書庫が残されました。
  
2019年10月01原稿

江戸時代の要石     (かなめいし)
            素っ頓狂
 芋窪、蓮華寺の南に木立(れんげじ)
に囲まれた一角があり、豊
鹿島神社の要石があります。(かなめいし)
 こんな話が伝わります。
 耕作の妨げになるので取(さまた)
り除くことになりました。
ところが掘っても掘っても
根深くて、地下に行くほど
大きくてどうしても掘り出
せません。そこで、要石と
名付け大事にされました。
 また、石のかたわらを掘っ
て出てきた虫の数によって
授かる子供の数を占いまし
た。一ぴき出たら一人、二
ひき出たら二人というよう
に、虫の数だけ子宝に恵ま(こだから)
れると云うのです。
 この要石を江戸時代の寛
政七年(一七九一)に江戸の
石永貞が訪ねました。清水
の大久保家から、芋窪の鹿
島の宮へお参りして、要石
を見ようと出かけます。
 夕陽の頃です。畑の中に
一八メートル四方位の塚が
目に付きました。当時は蓮
華寺は村山貯水池の湖底に
沈んだ石川にあって、この
周辺一帯は新田開発をした
畑でした。
 塚の上に古い松の木が二
株見られます。樹の下には
茨が生えて、勢いよく茂っ(いばら)
ています。
 その中に、要石はありま
した。最初に紹介した言い
伝えを聞いてきたのでしょ
う。「石根、黄泉に至る程(よみ)
・・・」と大きさを感じな
がら、さっそく写生しまし
た。今回紹介の絵です。現
在よりもゴツゴツしていま
す。周りが綺麗にされて村(きれい)
人達の心根が偲ばれます。
(『武蔵野』622号p40



2019.08.01.原稿

市最古の馬頭様      (ばとうさま)
         文 素っ頓狂
「これが市で一番古い馬頭
観音様ですか。寛政三年、
内堀村中とありますね。」(うちぼりむら)
一七九一年、村山貯水池
に沈んだ地域です。」
 奈良橋五丁目、庚申塚墓(こうしんづか)
地の入り口右側、村人が
を大切にして供養し、旅の
道中安全を祈願した馬頭観
音がまつられています。大
正八年(一九一九)、湖底に
沈んだ内堀地域から移って
きました。
 江戸時代の村は水田が少
なく畑作が中心でした。新
田開発のため地味も悪く、
収穫される米は悪米と評価
され、年貢は金納でした。
 やむを得ず、村人達は「駄(だちんかせ)
賃稼ぎ」をしました。天保
一四(一八四三)年、清水村
は幕府に書き上げます。
 当村は古来より、極めて
困窮の村です。男は樵・炭(こんきゅう)
焼、女は木綿糸撚・機織り(もめんいとより)(はたおり)
をして、江戸や最寄り市場(もより)(いちば)
へ出しています。
 時には、八王子、五日市、(いつかいち)
青梅、飯能等で、炭薪を買(はんのう)
入れ、馬に附けて江戸の御
屋敷様方へ納めています。
 夜四ッ時(午後十一時)
に出発し、江戸街道(現青
梅街道)を夜通し歩いて新
宿を経て、朝方、江戸市中
に着き、お屋敷に納めます。
 その日の内に立ち戻っ
て、夜五つ前後(午後八時)
に村に帰って来ます。
 この稼ぎに大きな役割を
果たしたのが馬でした。ま
た、内堀の人々は「内堀村」
を名乗りたかったですが、
「宅部」と決められました。(やけべ)
 そこで、最も大切にした
馬の供養に「内堀村中」を刻
んで思いを生かしました。


宮鍋隧道

  宮鍋隧道の水門   (みやなべずいどう)
       文 素っ頓狂
 「レストランの入り口?」
「家の門だと小さいわ」
「東大和の人が請負った
貯水池工事の一つだって」

 武蔵大和駅降りて右へ廻(むさしやまとえき)
り少し先の緑地です。明治
四十四年、村山貯水池の建
設計画が決定。大正三年用
地買収開始。村人は移転地
住民大会を開き、土地売渡
の調印を拒絶しました。し
かし、最終的には買収に応
じ、大正四年十二月移転を
開始しました。
  一方で、大正三年一月、
地元の三ツ木村、中藤村、(なかとうむら)
岸村、芋窪村、蔵敷村の「村(きしむら)(いもくぼむら)(ぞうしきむら)
民有志」が工事請負の請願
を提出しました。
「村総面積の約三分の一の
人家並びに有租地を失う。
結果収入並びに村民の生産
力に多大の減損を来す」と
して、工事は地元の村に「村
請負」として発注せよとの
訴えです。
 技術や資本の問題があり
村請負は成立しませんでし
た。しかし、人夫の供給を
請け負う「組」がつくられ、
仕事をしたい人は組に登録
して、仕事に就きました。
 また、水路工事に地元の
人々が参加して、一部分を
請負いました。その一つが
「宮鍋隧道」です。貯水池
の代表的な風景でもある取
水塔から淀橋浄水場に上水
を運ぶ水路で、狭山丘陵の
出口に水門が設けられまし
た。これを請け負ったのが
高木の宮鍋氏でした。現在(みやなべ)
は暗渠になっているため、
水門が二分の一に縮小され
て復元されています。

2019.06.01. 原稿


「洒落たレストランの入り口かな」
「どっか、遠くの国の建物かも知れないね」
「でも、家の門だと小さいわ」
「・・・・・」

 武蔵大和駅を降りて東大和方面に向かい、最初の橋・村山堀橋を貯水池方面に曲がります。右側に狭山丘陵に接するように緑地があり、人だかりがしています。

「これ、宮鍋隧道水門の縮小復元なんです」
「それ、なんですか?」

 明治44年(1911)、村山貯水池の建設計画が決定されます。大正 3年(1914)用地買収開始。村人は大正 3年(1914)1月22日に移転地住民大会を開き、大正 4年(1915)2月28日、土地売渡調印の拒絶をしました。

 一方で、大正31月、地元の三ツ木村、中藤村、岸村、芋窪村、蔵敷村の「村民有志」が工事請負の請願を提出しました。
 「・・・高木村組合(まだ大和村になっていなかった)は・・・村総面積の約三分の一の人家並びに有租地を失うの結果収入並びに村民の生産力に多大の減損を来すべきは疑いを入れる余地なき・・・」として、高木組合村の工事は高木組合村に、中藤組合村の工事は中藤組合村に「村請負」として発注する方針を立てよと訴えました。

 結果的には、技術や資本の問題があり 「村請負」は成立しませんでした。しかし、人夫の供給を請け負う「組」がつくられました。上貯水池には「多摩組」(芋窪村)、下貯水池には入山組と小島組(いずれも東村山)が組織されて、それぞれ事務所を設けました。仕事をしたい人は組に登録して、割り当てられた仕事に就く仕組みが出来上がっています。

 また、水路工事には地元の有力者が参加して、一部分を請負うこともありました。この一つが通称「宮鍋隧道」です。貯水池の風景の代表的な取水塔から狭山丘陵を潜って淀橋浄水場に上水を運ぶ水路です。東大和市高木の宮鍋氏が請け負った箇所です。現在は暗渠になっているため、水門が2分の1に縮小されて復元されています。



 かっての余水吐跡と水門
   隧道水門模型

(2014.07.19.記)