20愛染様
染物業者の間では、愛染様を信仰の対象としてお祀りします。愛染様はご本体が愛染明王(あいぜんみょうおう)で、藍染(あいぞめ)に音通するというところから、お祭りするようになったと言われます。
村山紺絣が盛んに織られていた頃、村山地方の紺屋でも愛染明王を祀っていました。
板橋にある愛染様へお参りしてお札を頂いてきます。そして、かめ場の壁に棚を造り、そこへお札を飾りおまつりします。毎月、二十六日には、特別にうどんをうってお供えしました。
愛染様の扱いには、清浄ということをやかましく言いました。これは、藍が濁らず美しく染め付くようにという願いからでしょう。かめ場へ上がる履物と土間を歩く履物は替えてはき、かめ場に女性を一切近寄せませんでした。
仕事始めの初染めは、一月二日でした。この日には、"にしのぐち"という和紙(美濃判大)で着物の形を切り取ります。そして背縫から右、左に分けて、身丈の三分の一ほどを藍がめにつけて染めます。それを引き上げて愛染様の棚に張りつけます。新しい〆縄を張り、お供餅、お神酒、けんちん汁などを供えておがみましたが、これらは一切男衆の手で行なわれました。
ある紺屋さんで、愛染様を祀っている所に鶏(にわとり)が出はいりして、ひなを育てていたことがありました。後にその紺屋さんが火事で丸焼になった時、これは愛染様を下浄に扱ったせいだろう、と言われたりしたそうです。
狭山には、今でも二十六日にはうどんをお供えして、愛染様を祀り続けている、元、紺屋さんがおります。(p43~44)
宗派は真言宗霊雲寺派で、光明山愛染院日曜寺と号し、御本尊は愛染明王です。
開山は、正徳の頃(1711-1716)に宥慶比丘が小堂を営んだのに始まります。その後、田安宗武(八代将軍吉宗の第2子)の帰依をうけ、等身大の愛染明王像をはじめ多くの仏像や仏画、什器類が奉納され、寺として再興致しました。
現在、山門には独特の草書体で揮毫された額が架けられていますが、これは文化12年(1815)7月2日に宗武の子、松平定信が奉納したものです。太平洋戦争により伽藍や什宝類を焼失した当寺にとって、往時を現在に伝える唯一のもので、昭和60年度に板橋区有形文化財に登録されました。
愛染の語句から縁結びの仏として、また愛染が藍染に通じることから染色業の守り本尊として、古くから信仰を集めています。なお、境内にある水屋の手水鉢や石碑や寺を囲む玉垣は、染色組合の人たちが奉納したものです。(板橋区教育委員会掲示より)
板橋の愛染様
日曜寺(にちようじ)
山号:光明山
院号:愛染院
寺号:日曜寺
宗派:真言宗 霊雲寺派
ご本尊:愛染明王
札所:豊島八十八箇所 霊場 四十九番
正徳年間(1711~1716年)に宥慶比丘という方が小さな堂を建てたのが始まりで、後、
8代将軍吉宗の第二子、田安宗武により愛染明王像などが奉納され寺としての形が
整った、更に宗武の第三子、松平定信により山門に扁額が奉納され、本尊の愛染明王
にあやかり、江戸の染色業者の信仰を集めた。愛染=藍染につながる。
しかしながら、太平洋戦争で伽藍のほとんどが焼失、昭和45~51年にかけ
再興された。
愛染堂勝鬘院
愛染明王は、もともとは煩悩〈愛欲や欲望、執着〉を悟りに変えて、菩提心(悟りの境地)にまで導いてくれる力を持つ仏様です。梵名は「ラーガ・ラージャ」といい、全身はギラギラと燃えたぎるような赤色で、三目六臂(三つの目と六本の腕)をそなえ持ち、まるで私たちの不甲斐無さを叱りつけているかのような忿怒の形相をされています。 …が、それも実は衆生済度の為、諸々の悪者を追い返す為であり、根は優しく、愛敬(あいきょう)開運を授けてくださるご利益があります。
「愛染」=「藍に染める」という言葉から、染め物屋、アパレル関係者からの信仰も篤く、愛敬をアップしてヒットを祈願する芸能人、商売繁盛を願う商人・企業家、出世を願うサラリーマンとその家族、身体健全を祈る人たち、必勝祈願の受験生と…、愛染明王は不動明王と並んで多種多様の方々から支持されています。
それというのも、『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』という経典に、愛染明王の霊験は「無病息災」「増益」「敬愛」「降伏」「鈎招(福神を招く)」「延命」である。と記され、特に良縁成就や結婚成就・夫婦円満・商売繁盛においては仏教神の中では最強最高と誰もが認めるほどで、その手に持たれた弓と矢で愛のキューピットのように人と人、心と心を結び付けます。