「せっかく泊めてもらったのですが何のお礼も出来ません。そのかわりこの家の厄病(やくびょう)を祓(はら)ってあげましょう。大晦日(おおみそか)の夜、幣束(へいそく)をさんだわら(俵のふた)に差して上りはなにかざり、三方(さんぼう)の辻に納めなさい」
と告げて立去りました。
そこで、原家では大晦日の夜がくると、幣束をさんだわらに差して上りはなに飾り、お神酒(おみき)とお燈明(とうみょう)をそなえて無病息災(むびょうそくさい)、家内安全を祈りました。そして一夜が明けると塩ばなで清め三方の辻(三叉路)に納めたということです。
それ以来、同家では「厄神(やくじん)さま」として祀るようになりました。これは、清水の原さんが宅部村にお住まいの頃、ずっと昔から伝わるお話です。
ところが、このご時世です。三方の辻の「神様」はいつ「ふんだらげられる」か分りません。それではもったいないことで、今ではうぶすなの神・清水神社のご神木の根元に納めています。
始め、赤い幣束を立てたそうですが、今では、水色だった「水神さま」も同じように白い幣束になりました。「厄神さま」は、いつか原家の親族の間にも祀られるようになり、その行事は今も続けられております。(『東大和のよもやまばなし』p45~46)
そうよ、ずっーとずーっと昔のこんだよなぁ。おやじの親のその親のもっと前のこんだんべ。オレーらの宅部はよ、狭山丘陵の中だんべ、んでな、西っ方の石川の方から来んと、ちーっとんべー広くなっててな、開けた感じがしてえただよな。逆に東のメグッタから来んと、あんだか里の懐に入るようでな、云ってみりゃ、ぬくっといだい。
宅部川にゃよう、セキがカッテあってな、そっから水を引いて、ちっちぇ田圃があっただ。んだから、僅かでも米はとれたけんどよ、なかなかオレーらの口までは入らなかったよな。
秋口になんとな、稲刈った後の田に、雁が来たぁだよ。冬になんと、後が谷の峰に日が落ちてな、頂が夕焼けで赤く染まんだわ。そりゃ、見事だった。でもよ、そのあと、すぐ日が暮れちまうだんべ、見とれちゃいらんねえで、仕事じまいに追われただぁよ。
その年もどうにか無事でな、暮れになって、来年もいいことがあんように、「年神様」のオマツリにかかったぁだ。そん時、戸口でな
「トントン、トントン」
と音がすんじゃんか。
原万次
54、厄神(やくじん)
我が家の話し。年代は明治になってからの事、まだ宅部(やけべ、今は多摩湖の湖底になっているところ)に住んでいた頃、旅人が一夜の宿を求めて訪ねてきました。 翌朝、旅人は泊めてもらったお礼として、「大晦日に厄神という神様を祀りなさい、そうすれば一家が無事に暮らす事が出来る」とその作法を伝えました。
厄神は一夜の神、大晦日に厄神の形代を居間の入り口に飾り灯明を絶やさないようにする、しばらくは我が家だけで祀っていましたが、だんだんと広まって今ではかなりの家で祀られています。 厄神というのは,厄をもたらす神で、あちこちに厄を播いて歩くので、どこへいっても嫌われる、そこで大切にしてやれば災いから逃れることが出来るという多くの民話に出てくる話ですが、昔話ではなく現実にあった事として伝えておきます。
折口信夫さんの「まれびと(稀人)」といういずこからか来ていずこへか去ってゆく、それは人や、風、動物に形をかえた神様という、民間の信仰がこういう形でつたわり、人々の生活に活かされていたのではないかと思います。
市が発行した、 「東大和のよもやま話」では、一夜の宿をもとめたのは、旅のお坊さんとなっています、絵もそうなっていますが、旅の人ということで、お坊さんではありません。
民話として、多摩湖の記録(多摩湖発掘の整理や研究をする組織のニュース)8号に掲載しました。
これとよく似た話しとして、東大和に鬼の宿という節分の日に「鬼は外」ではなく、鬼を家に入れてもてなす家があると、「東大和のよもやま話」に載せられています。(2010.06.09記)
武蔵村山市史 民俗編p608~609
赤い幣紙 疱瘡神 疾病の退散を願う
青い幣紙 水神 水を確保
奈良県三輪神社の赤御幣 厄除け、開運の御幣 HP
三宝荒神 赤青白 HP