21馬方勝っつあん

21馬方勝っつあん

 

21. 馬方勝っつぁん

タイトル:馬方勝っつぁん
場所:東大和市奈良橋市民センター内
設置日:平成3年3月19日
材質:ブロンズ
サイズ:H1200×W930×D340センチメートル,H1200×W350×D340センチメートル

(作品紹介)
  今は、すでに湖底に沈んでしまった内堀集落に、お酒の好きな体格の良い馬方さんが仕事に来ていました。
  その馬方さんは名前を「勝っつぁん」と言い、朝早くから馬車を引き、所沢の問屋から仕入れた注文の品物を、得意先に配達して回るのが毎日の仕事でした。
  働き者の勝っつぁんは、お酒が何よりも楽しみにしていたので、時には酔っ払ってしまうこともあり、見かねた店の主人が馬に「家まで送っておくれ」と頼むと、馬はわかった様子で勝っつぁんが落ちないようにゆっくりと歩いていったということです。


馬方勝っつあん 

 今はもう湖底に沈んでしまった内堀部落に、レンゲ、タンポポが、春がすみの中に咲いていたころのお話しです。
 この村に中藤村(武蔵村山市)から、お酒の好きな五十歳前後の体格のよい馬方さんが、配達の仕事で来ていました。

 当時村の人々は、「馬方勝っあん」と呼んでいました。
 勝っあんの家は、芋窪村と中藤村境の東の「とっつき」旧青梅街道の北側にあり、通称「中藤の大橋」にありました。
 朝早く家から、馬車を引き出し、得意先々の店により、注文の品物を聞き、所沢の問屋まで仕入れに行き、配達して賃金をもらう毎日でした。

 勝っあんはよく働く人で所沢まで往復八里(十六キロメートル)もあるのに、夕方までに注文の品を届けるので、商店の主人達に重宝がられておりました。

 勝っあんは、「内堀の店で好きな酒をゆっくり飲む。これが何よりの楽しみで働くのだ」とよく言っていたそうです。
 「内堀の店」と言うのは、内堀村、西隣り、荒ヶ谷戸、東隣り、杉本、林、中田、の数十軒の民家を相手に、関田力造さんという人が経営していました。雑貨、荒物、酒、タバコ、米、麦等生活に必要な品を揃えていた大きな商店でした。
 いつものように勝っあんが、「一杯飲んでいくべい」というと馬の足は自然と「内堀の店」の前で止りました。
 勝っあんが、中で陽気に飲んでいても、馬はおとなしく外で待っていました。お酒の好きな勝っあんは、ついつい飲みすぎてしまい、酔っぱらってしまうこともありました。そんな時、店の主人は馬に、「お前、勝っあんを家まで送っておくれ」とたのむと、馬はわかった様子で、勝っあんが落ちないようにゆっくり歩き出しました。

 いい機嫌に酔った勝っあんが、たずなを手に持ち、『かわいいばあさん乗せて、東京へ行ってみてえ』と歌いながら馬車にゆられて、庚申坂を登って行く姿を見たものだ。」と内堀村の長老、内堀小十郎さんは当時を思い出しながら、なつかしそうに話してくれました。

 勝っあんの通った道は、現在の奈良橋八幡神社東側の道を登ると、村山貯水池周囲道路につき当ります。その真向いの道です。進行防止の鉄線がはられていますが、その道をしばらく行くと、急坂になりその辺から水辺になります。昔はこの坂を下った所に、庚申様が祀ってあって、内堀村の人々は「庚申坂」といっておりました。
(p118~120)

 庚申坂は当時のメイン道路 内堀に入る前に宅部方面、山口観音~山口城~河越方面への分岐路があり、2方向に向かう

 庚申様(霊性庵)と宝筐印塔(雲性寺)が祀ってあった。 田久保さんから聞く。2010.02.02.
 宝筐印塔は享保10年(1725)雲性寺法印伝翁 金乘院現住法印 竜成
 庚申坂には、内堀小十郎、内堀義三(お庚申)が住む

 市資料編は関田力造 正しくは関下力造