23おっぴらき
昔、伊勢神宮参拝を目的とした「伊勢太太講」(だいだいこう)という講がありました。伊勢までは遠く、多額の費用を必要としましたので、その都度講中を募り、長い間積立てをして旅費を貯め、伊勢詣りに出掛けたものでした。
大正八年ごろ、狭山でも二十人ほどの講中が伊勢詣りに行った事がありました。全員村山緋で揃いの羽織を仕立て、下着も財布までも身につけるものすべて新しいものを準備しました。秋の農事の相間(あいま)をみて日程を決め、出発の当日、朝早く氏神様の境内に集合して旅の無事を願って、神主さんにおはらいをしてもらいます。ついでご神酒(じんしゅ)をいただき、身も心も浄(きよ)めて家をあとにしました。伊勢神宮に到着すると早速「太太神楽」を奉納し、おはらいを受けます。参拝を済ませたあとはゆっくりと見物をたのしみ、三、四日滞在ののち家路に着きました。
村では一行の到着を待って青年団を中心に、伊勢から帰ったばかりの人々も旅の疲れを忘れて、早速、うぶすな様(氏神様)への報告祭の準備にとりかかります。先ず日取りと場所を決め、舞台、桟敷(さじき)を設営
する人、役者を手配する人、その他祭の行事を差配(さはい)する人など、この時ばかりは村中総がかりでそれぞれ分担をきめて、忙しく走りまわります。歌舞伎座から、有名無名の役者五、六人、おはやし共々十数人の一行が来る手筈(てはず)になっています。準備万端(ばんたん)整って、いよいよ祭の日を迎えました。まわりには、おでん屋、餅屋、寿司屋、おもちゃ屋などの露店が並んで、祭気分を盛り上げています。もう村中が祭、祭と浮立っています。むしろを敷き、丸太で仕切った桝席は着飾った見物人でいっぱいです。一桝が一坪ほどの広さの桝席に、それぞれに手製のいなりずし、のり巻、玉子焼に赤飯など、お酒もそえて持ち込み、親戚の人を接待して飲んだり食べたり、賑やかに芝居見物をするのです。
各家では、他の村に住む親戚を招待し、招かれた家ではお礼として、お金を奉納します。これを「花(奉納金)をかける」といっていました。村では花の返礼として大福餅などを用意します。祭の当日、股引にはっぴ姿の世話人が、中側が朱色、外側が黒色のうるし塗の餅箱に餅を入れて
「○○さんのお席はどちらでごさんしょう」
と大声で景気をつけながら、桟敷をまわって配ります。花の額によって餅の数が違いますから、箱がいくつも重ねてあると「いくらの花をかけたのか」と暗黙のうちに値ぶみをする光景もしばしばみられました。一箱の場合は花をかけた人に恥をかかせないようにと、からっぽの箱を重ねるといった心遣いもしました。
夕方の六時、秋の日は短く、日はもうとっぷりと暮れていよいよ祭のはじまりです。裸電球がいくつもぶら下って、辺りを照らしています。まず最初に、うぶすな様へのお礼と報告を兼ねて、八岐大蛇退治(やまたのおろち)をテーマにした"太太神楽"が奉納されます。それが終るとお待ちかねの歌舞伎芝居が上演されます。張紙で当日の演題が披露(ひろう)されますが、たいていはおなじみの忠臣蔵、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)、一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)などが主な出し物でした。幕間には村の人達によるお囃子も参加します。
舞台の横には近くの家から運んできた風呂桶が五つ、六つ、よしずで囲って露天風呂ができています。五、六人の役者が、一人で何役も演じるので、一つの芝居が終るたびに風呂に入って化粧を落とし、由良之助から政岡にといった具合に、扮装(ふんそう)をしなおしていました。十時ごろには芝居も終りますが、二晩続けて上演されることもありました。
芋窪でも鹿島さまのお社の修理が行われた時、催された事がありました。境内に間口十二間(二十一・六メートル)、奥行五、六間(九~一○メートル)の大舞台を組み、花道や楽屋、見物席なども作りました。東側の山を開き、ひな段式の花やぐらを作ったり、桝席を設けたり、また舞台や見物席の上には、晒(さらし)の布で幕を張るなど、大がかりなものでした。
こうした歌舞伎芝居は莫大な費用がかかりますので、何十年に一度といった村をあげての行事の時だけに限られていました。費用はすべて奉納金でまかなわれ、木戸銭は一切要りませんでした。ただで見られる芝居をこの辺りでは「おっぴらき」といっていました。お金を握らずに手をおっぴらいて見に行かれるので、そう言われたのだそうです。
当時はどの部落でも同じように"おっぴらき"を楽しんでいたようです。
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