27ぼろっ籠
その昔、三と八のつく日に所沢では「市」が立ったそうです。織物屋を中心に月六回開かれたので、「六斉市」(ろくさいいち)と呼ばれておりました。
この日、所沢の町は道の両側に、衣料、食料、日用品、雑貨など、たくさんの露店が並び大変なにぎわいでした。
当時、大和の村の人々は主食の米(陸稲 おかぼ)、麦などは自給自足していましたが、それ以外のものは、外から廻ってくる行商人から買っていたのです、、むろん、村の中にも店がありましたので、ふだんの生活には困りませんでしたが、市の日は、品物も多く何でもそろいますからまとめて買います。また買物は、楽しみの一つでもありました。
村人たちは市の日になると、ぼろっ籠を背負って出かけました。そこで、この市を「ぼろ市」とも呼んでいたのです。
ぼろっ籠は、まことに重宝な物入れで、当時のショッピングバッグ、と言ったところでしょうか。畑仕事、お茶つみ、野菜の取り入れなどと用途も広く、農作業には欠かせない道具です。ですから、農家にはぼろっ籠の二つ三つはありました。
ところがこの籠、新しいうちからなぜか、「ぼろ」と呼ばれておりました。ぼろというのは実は、馬糞(ばふん)のことなのです。青梅の方では古くから「まぐそっかご」と言われていたそうですから、これはやはり馬糞を入れる籠だったのでしょう。中がゴザ編みで目のつまった籠は、中身をもらさずに運べます。
馬糞は農作物の肥料によく、昔は、道ばたに落ちているのは大切に集められました。馬の往来のさかんな街道筋や坂道の下には、落しものがとくに多く、人々はぼろっ籠を背負い競って拾いに行きました。
当時、庚申塚から青梅橋にかけて人家が無く、一面に原がつづいておりました。この風景を奈良橋の人が、
「ぼろっ籠をころがすと国分寺までころがっていく」と
たとえたものです。
さて、時代が移ると農家の生活もかわり、車が使われるようになりました。ぼろっ籠の影もしだいにうすれてきましたが、それでも畑仕事に、落葉はきに、ぼろっ籠は今も健在です。(東大和のよもやまばなしp59~p60)