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②天明の飢饅と「里正日誌」
天明期(一七八一~八八)は、全国的に異常気象や自然災害が
集中的に発生し、このため連年大凶作が続き、人びとは大飢饒に
見舞われ、社会全体が大混乱に陥った時期である。すなわち天明
二年には奥羽・四国・九州が大凶作になり、同三年には蝦夷地・
奥羽・関東・九州が大飢饅、同四年には奥羽など北日本を中心に
全国が凶作や不作となり、同六年には奥羽・関東が大洪水に襲わ
れ、諸国も大凶作になるなど、天明期を通じて全国が凶作や大飢
饅の嵐にさらされ続けたのである。なかでも被害が激しかったの
は同二・三年の奥羽地方の大飢饒であったが、関東における大飢
饅の状況もすさまじく、その端緒となったのは同三年七月の信州
浅間山の大噴火による異常気象と利根川の洪水であった。そのと
きの様子を『天明里正日誌』から見てみよう。その記述は数か所
の余白にメモ的に書かれており、内容も天明期を通じてのもので
あるので、年代的に整理したうえで次に紹介しよう。
○天明二年寅の冬より気候違ひて十二月迄暖二て、菜種の花咲
揃ひまた筍(たけのこ)を生し時々雷鳴ありき、あくれハ三年卯の春ハ正
月より四月比まで風雨こて雨しげく寒気甚し、土用中も冷気
こて田畑とも不作こて田植の比こも人々綿入を着、火にあた
る程也、夫故穀物高直也、七月の初め雨に交りて砂を降らし
或ハ風につれて臼き毛の如きもの飛来れり、又大地の震ふ音
昼夜二及びぬ、これハ浅間山の焼也とそ(下略)
○天明四年諸国飢饒二して時疫亦行われ、米価壱両二付三斗弐
三升二至り、
○翌五年二月より秋二至り旱天打続き米・麦不作、
〇六年正月江戸大火、七月洪水、
○天明六年丙午正月元日、丙午こて日蝕皆既闇夜の如し、四月
迄雨なく烈風、五月より雨繁く隔日の様なりしが、七月十二
日より大雨降続き大洪水(千住・小塚原ハ水五尺もありしと、
浅草迄ハ船二て通行、永代橋二十間余流失)、夏より冬こかけ
て諸国大飢饒、
○天明七年春より江戸二而米価高く、初めハ百文二白米六合な
りしに五合となり、四合となり、四、五月より又上りて三合
となる、
このように記述は簡単なものが多いが、全体を通して読むと天
明の飢饅がいかに長期にわたるものであったか、あるいは諸方に
与えた影響の一端が理解されよう。
つぎに、全国を大混乱におとしいれた天明の大飢饅に対し、幕
府はどのような施策を講じたかについて、ふたたび『里正日誌』
から見てみよう。まず『天明里正日誌」から関係史料を抽出する
と次のようになる。
①天明三年十月三日「米穀高直」につき食糧の「足合」とし
て「藁餅」の作り方を触達。
②同年十一月徒党を企てる頭取または中核の者を「見定」め
のうえ捕縛・差出方請書。
③(同四年三月)高木村庄兵衛宅打ちこわし被害書上(『里正
日誌』には天明三年の最初に収められているが、その註(朱
書)に、この書上は明治二十年(一入八七)「高木の宮鍋庄兵
衛」家の「古襖の下張りより」出たが、「生憎年月日なけれバ
里正日誌中二挿入二苦みたり」と書かれており、この打ちこ
わし一件の年代を誤ったものと思われる)。
④同年四月米穀高直につき、買占めの者および徒党し彼らを
打ちこわす者を取締まる触書。
⑤同年五月凶年時の食あたり、およびその後の疫病流行に備
え妙薬の製法につき触書(享保十八年十二月触書の再触)。
⑥同年九月昨三年は凶作のため囲穀高取調方につき廻状。
⑦同年十二月明和四年以来納入の新穀代利倍金下げ渡しにつ
き廻状。
⑧同五年七月田方旱損の場所は粟・稗など秋作手替すべき旨
達書。
⑨同年八月田方旱損の場所見分につき届出方達書。
⑩同六年八月出水のため馬飼料不足につき買上方達書。
⑪同年八月出水のため同年六月の諸国寺社農商への御用金拠