32三光院の鐘

32三光院の鐘

 昔、三光院は村山下貯水池の取水塔のあたりにありました。
 村一番の名勝地で蓬莱(ほうらい)山によく似た山の上の出っぱりに建てられていて、八十段からの石段を登る崖は「雁ヶ谷」(がんがやと)と呼ばれていました。その眺めの美しさは格別で一幅の日本画を見ているようで、うっとりと見ほれてしまうほどでした。

 徳川家代々より寺領三石の御朱印を賜わっている格式の高い寺院で立派な鐘楼や門前池もありました。
この三光院も貯水池工事のために現在の地新青梅街道沿い(清水四丁目一、一三二番地)に移転しました。『真言宗豊山派』(しんごんしゅうぶざんは)『輪王山三光院』(りんのうさん)とある門柱を入ると右奥に立派な鐘楼があります。ここに吊ってある現在の鐘は三代目で、初代は永禄三年(西暦一、五六○年)に鋳造され二二〇年後の安永十年に二代目を鋳造しています。この二代目は一六四年経過した昭和十九年、大平洋戦争中お国のために供出しました。このときの鐘は百二十貫(約四百八十キログラム)ありました。

 昭和四十二年八月に火入式をした現在の鐘は京都で造りました。寄進した人の名前を銅の五分板(一・五ミリ厚さ)に書き、錫と一緒に焼き込んであります。同年十二月二十八日梵鐘三光院着、三十日、百五十貫(六百キログラム)の梵鐘本吊りを終り翌三十一日に新鋳の鐘で除夜のかねをつきました。

 三光院の壇家である田口良助さんは六十五歳のとき"今まで真面目に生きてきたが何か変ったことで一つの事をやりとげたい"と思い、十三年間朝夕六時の鐘つきと庭掃除その他お寺の世話をして奉仕しております。

 朝は仕事の始まりの鐘、夕方は終りの鐘を携帯ラジオの時報に合せて六つつきます。つき方はあまり力を入れすぎず、しゅ木が平に真すぐ鐘にあたるとよい音になります。しゅ木は檜で鐘にあたる部分に碁盤の目のように縦、横に五分(一・五ミリ位)の深さの切込みを入れ、割れないようにカツラと云う鉄の輪をはめて四ヵ所木ねじで止めておきます。この切込みを入れておかないと鐘の音が固くなります。

 毎年十二月三十一日には昼頃から鐘楼を洗い、しゅ木の紐を取替え、鐘楼の前に焚火をするための直径六尺(約一・八メートル)位の穴を掘り薪を用意しておきます。あと鐘をつくときに使うマッチ棒の束もつくります。十本の束を十個、八本の束を一個これを鐘をつく度に一本ずつ捨てて百八回つきます。除夜の鐘をつきに来る人が寒くないように焚火し、甘酒をご馳走しますがこの甘酒は三斗釜にお寺で作ってくれます。

 準備も終り二十三時五十分から鐘をつき始めますが順番は住職、住職の息子さん、田口さん、檀家、次に一般の人です。百八つ目はしめくくりで住職か田口さんがつきます。鐘をつきに来た人は並んで待ちますが檀家の人より一般の人の方が多いようです。毎年中学三年生の子が高校受験の願かけに友達を誘い合って多勢(おおぜい)きます。

 住職が鐘楼の側(そば)に立ち般若心経(はんにゃしんぎょう)をとなえ一くぎりつくと小さい鐘をならします。それに合せて田口さんが合図をしてくれますので梵鐘をつきます。間隔はだいたい三十秒位です。来た人は焚火にあたり甘酒をもらって暖をとります。百八つつき終るのは元旦の一時三○分頃になり、つき終った住職は残っている人達と焚火にあたりながら話をします。中三の男子生徒が多く高校受験を間近にした子供達もさっぱりした明るい顔で帰ってゆくとお寺は暗につつまれ本堂の明りだけになります。
本堂に署名簿が置いてありますが記名する人は四百人から五百人位いるそうです。
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