36メリケン袋物語
大正八年頃のことです。尋常高等小学校高等科二年の男子生徒の発案で、小学生は男も女もメリケン粉の空袋を持ちよりました。袋をきれいに洗い型紙を渡された女子はそれでパンツを縫いました。
一枚の袋で二枚のパンツができます。ゴムのかわりに紐でしばるようにして女の子にはかせました。学校にもそなえておき、はいていない子にはかせました。これで廻りの者も不本意な目のやり場を気にしなくてすむようになりました。これは当時の発案者の方から聞いた話です。
白い粉の空袋はとても重宝しました。物を入れるのはもちろん、つなぎ合せて女の人の腰まきなどになりました。
四貫目(十五キログラム)入りのメリケン粉袋は縦七、八十センチメートル、横四十センチメートル位のりの大きさで、白地に大きく商標がついていました。かたく糊がついていましたから、よく洗って落さないと不都合なこともあったでしよう。
紺屋に持っていって紺に染めてもらい、二、三枚合せて印半てんにもしました。下にももひきをはき、腰きり半てんを着たものです。純綿ですから大変丈夫でした。
小学生が学校のおべんとうにさつま芋を持っていきました。今日は一本とか二本とかいい合ってふかし芋を持っていくのですが、それを包んだのがこの袋で風呂敷がわりにくるんで腰に結んで通ったそうです。
これも小学生の頃貯水池へ魚を取りに行った方の話です。ばかっぱや(おいかわ)というのがたくさんえさいました。朝早く家を出て蚕のさなぎを干して粉にしたものを餌に池にまくと、数えきれないほどのばかっぱやが寄ってきました。釣竿で、たたき釣りをするといくらでもかかり、一人が釣って他の者がそれを拾わないと間に合わない位でした。釣り手は魚を釣っては後にぽんぽんと落とし、拾い手はその魚が又池に滑り落ちてしまわないうちに集めて廻りました。
そしてこの釣った魚を魚籠がわりに入れて水につけておいたのがこの袋です。終ると水から引き上げて持って帰るのですが、しょえない位たくさんとれたそうです。
また蝮(まむし)をとるのが上手な人がいて、捕まえて入れたのもこの袋でした。五、六匹は入っていました蝮は売ったそうです。
戦時中の物のない時にも袋は大いに働きました。白い袋には印刷がしてありますからそれを色抜きしてもらい男物のパンツ、ひろげて何枚かはいで女物の腰巻、敷布、夜具を包む風呂敷などに八面六臂(ぴ)の活躍をしました。
四貫目入りの粉を買うのですからうどんはよく作りました。粉を水でこね、上に袋を置いてその上にのり、子守りをしながらふんだそうです。子供の重みが加わって力が入り、いい手打ちうどんができました。どの家にも見られる情景でした。
メリケン粉がこの辺に出回るようになったのは大正になってからのようですから、その頃から、この空袋はあるのが当り前のように生活に密着してくらしの一端をになってきたのでしょう。
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