37つけ木の受取りメモ

37つけ木の受取りメモ

 新青梅街道から南がわは、今でこそ建物が多くなりましたが、昔は、ほとんど畑でした。川がなくて水が不足していたので、かんばつにつよいお茶、さつまいも、桑などが植えられていました。

 五月になると、お茶つみが始まります。お茶つみは女や子供のしごとでしたから、学校は休みになりました。子供たちは、わが家の茶つみがない時に、大きな茶畑のある家ヘアルバイトにでかけます。大正三、四年ごろで、一貫匁(三・八キログラム)つむと十銭ぐらい手間賃がもらえたそうですから、みんなせっせとお茶をつみました。

 子供たちは、おこづかいがかせげるので、つんだお茶を畑の持ち主のところへ持っていっては、受取りのメモをもらいます。その頃は、白い紙を使うのがぜいたくな頃でしたから、手近かにあるつけ木の白いところに、○月○日、目方○貫匁、〇十銭と書いて渡すことがよくありました。子供たちは、つけ木の受ロ取りメモを手にして、とんで帰っていきました。

 つけ木は、マッチのかわりに火をつける時に使うもので、うすい木片の一方の端に硫黄(いおう)をぬってあります。それを細く折って使うのですが、マッチを買うにも高いので、台所ではたいていつけ木を使ったようです。

 茶畑の持ち主は、お茶の葉を売った代金から手間賃を払ってくれるので、少しおそくなります。その間、子供たちは、何枚かのつけ木のメモを見ては、お金を計算して、おこづかいのもらえる日まで、だいじにしまっておきました。
(p85~86)

 この物語の生まれた大正3年(1914)から4年(1915)の頃の東大和市域は、まだ、東京瓦斯電気工業(株)の工場や社宅が出来ていない頃ですから、新青梅街道から南側はほとんど畑でした。

 特に、大和村になる前の細長い村が高木他五ヵ村組合村を形成していましたが、村々はそれぞれに独立し二重行政に悩まされていた頃でした。
 丁度、この時代、村々の農業は、現金収入を得るための農業に転換を迫られていた時で、よもやまばなしの主人公達は、我が道の選択に頭を悩まされていました。
 そこでは、多くが桑畑で、お茶が栽培され、薩摩芋や野菜が植えられていました。水がないため、旱魃に強い作物が選ばれたのです。

 統計がバラバラですが
   大正5年(1916)戸数 779 総人口5052
   専業農家 591戸  兼業121戸 計712戸
   内製茶            150戸
       (出典 大和町史p445)
 とされ、ほとんどが農家で、多くの農家が自家用も含め何らかの形で製茶に携わっていました。よもやま話は良くその状況を伝えます。

 「5月になるとお茶摘みが始まります。お茶摘みは女と子供の仕事でした。学校は休みになりました。子供達は、我が家の茶摘みがない時に、大きな茶畑のある家へアルバイトに出かけます。・・・」そして受け取りのメモにしたのが、「手近にあるつけ木の白いところ」でした。

 また、学校が休みになることが話されますが、この当時はすでに義務教育年限は6年になっていました(明治40年の小学校令改正による)。おそらく、つけ木の受取りメモの主人公は小学生でしょうが、農繁期には、子供が手伝いのため学校を休む状況が続き、農繁休校を行って凌いだ時期でした
 ちなみに、高等小学校では、大正9年に
 「年々幾分増加の傾向ありといえども、いまだ、戸数の一割に達せざるが如きは・・・」(大正9年村会議録)と云う状況でした。
 大正初期の新青梅街道以南の状況と教育の有様を証言する貴重な話です。


統計に不確かな部分がありますが

大正5年(1916)戸数 779 総人口5052
   専業農家 591戸  兼業121戸 計712戸
   内製茶              150戸
       (出典 大和町史p445)

で、ほとんどが農家で、多くの農家が製茶に携わっていました。