39ハイヤーの話
昭和二年に大和村にハイヤーが開業されました。運転手は石井文武さん、車は一九二二年型フォードでした。
お客はいそぎの人が主で医者が雨の日の往診や病人のために使ったり、お嫁さんを乗せたこともあります。ハイヤーをたのむのは自転車で呼びにいきました。行先は大体この近くでしたが、たまには遠出の客もありました。江の島や箱根、成田などに家族つれを乗せて行ったそうです。
下田まで日帰りで行ったことがあります。新宿まで青梅街道を行くのですが、途中一ヵ所荻窪に踏切りがあるだけのストップ一回で行ってしまいました。信号がまだなく、東京でも大きい交差点だけにお巡りさんがいて、手信号でさばいている頃です。
変った客としてはゆきだおれを乗せたこともあります。歩けなくなった老人を役場でたのまれ、係の人と板橋の養老院に運んだことも何回かありました。
日曜は貯水池を回ったり、東村山駅まで客を乗せましたが、アベックもいてバックミラーを上げて後の座席を見ぬふりをしながら運転したこともあります。
料金はメーター制でなく、どこからどこまでいくらと口約束でした。次に何分いくらと時間制のこともありましたが、なかなか実行できず結局口約束のことが多かったようです。
東村山、小川まで一円、立川一円五十銭、青梅、田無三円、遠い所では江の島、成田十三円、日光十七円などで昭和十年の料金です。
今のようにガソリンスタンドが近くにあるわけでなく、ガソリンは東村山の雑穀(ざっこく)や灯油を売る店で一斗カン(十八リットル)に入っていたのを買いました。始めは安かったガソリンも五ガロン(約十八リッター)で昭和十一年五月に二円三十銭だったのが二円五十五銭、二円八十銭、三円十五銭、三円二十銭と一年余りの間にたてつづけに値上りしました。
当時国連を脱退した日本が軍国国家として軍需(ぐんじゅ)工場を伸ばすため、庶民へのしわよせが始っていた頃です。石井さんがハイヤーをやめた次の年に太平洋戦争が始りました。(p89~90)