
5. 俵かつぎ
タイトル:俵かつぎ(たわらかつぎ)
場所:東大和市上仲原公園
設置日:平成3年3月15日
材質:白御影石
サイズ:H3500×D1500×W3000センチメートル
(作品紹介)
麦まきも終わり、畑仕事も一段落した「えびす講」の日(十一月二十日)には、村の青年団の運動会が行われていました。
大正八年、高木村外五か村組合が合併して大和村となったので、それまで各村々でやっていた運動会が合同で行われることになりました。どの競技も観衆をわかせましたが、中でも花形は六十キロの土俵(つちだわら) をかついで百メートルを走る俵かつぎ競争でした。
村一番の力持ちを決めるこの競争には、一段と応援の熱が入りました。
俵かつぎ
村の運動会
農家が麦まきも終り畑仕事が一段落したえびす講の日(十一月二十日)は村の青年団の運動会です。朝から花火があがり、各分団毎に集まって、楽隊を先頭に選手、役員、応援団が一隊となって第一小学校まで行進してゆきます。
高木村外五ヶ村組合が合併して大和村(大正八年)となったので、それまでは各村々でやっていた運動会が合同でやることになったのです。当時の部落同志の対抗意識はすさまじいものがありました。 大正十五年からは優勝旗が授与されるようになって、ますます対抗意識は強くなりました。優勝旗は青年の意気を盛上げるため、東京神田で新調された紫の地に縫い取りも鮮やかに赤い房のついた立派なもので、若人の血をわかせました。分団では種目別に予選をして代表を選びます。青年達は夜になると校庭や、神社の境内で、ハダカ電球をつけて練習に励みました。村に娯楽のない当時としては練習も楽しみの集まりでした。
第1回優勝は狭山分団でした。狭山分団はどの競技も強くてたびたび優勝したようです。
競技種目は今も昔も変りなく、陸上競技の全種目が行なわれました。百メートル、二百メートル、八百メートルなどの競技には予想屋まで出て人気はスターのようでした。五千メートル、一万メートルとなると大スターでした。走り巾跳、棒高跳、円般投、砲丸投などに出場するため、当時としては高価(六円)だったスパイクで活躍した人もいます。高木地区では砲丸投にハカリ玉(計の重り)を使ってやっていた事がありました。
どの競技も村中総出の応援でしたからそれは大変なものでしたが、中でも呼びものの六十キログラムの土俵をかついで、百メートルを走るおらが村の力持ちを自慢する"俵かつぎ"競走には一段と応援の熱が入ります。障害物競走にも十二貫入り(四十五キログラム)のいも俵をかついで走り大いに会場をわかしました。陸上の花形マラソンも青梅橋から小川橋、小平神明宮の三叉路を廻ってくるコースには声援が続きました。三位までに入賞すると賞状と賞品がもらえて、醤油樽(一斗入り)をもらった人もありました。
得点は一等三点、二等二点、三等一点と加算し分団の優勝が決まります。エキサイトしてくるに従い、村の住人でなければいけない、学生は出場できないなど出場選手のチェックもきびしくなり、役場の戸籍係は対照に飛び、大分忙しかったようです。
当時は、二十五町村から選ばれた選手が北多摩の代表となり東京におくられました。大和村からも代表選手が選ばれています。走り高跳が得意だった杉本さん、八百メートルの真野さん、百メートルの榎本さんなど代表として活躍しました。
また校門の両側に、アメ屋、オメン屋、団子屋などの店が出て一日中お祭さわぎでした。
とっぷりと暮れた街道を楽隊を先頭にし、威勢よく帰っていきますと飛び出して迎えたものでした。 カシで作った木製の銃剣道が盛んになり、見事な演技を見せてくれた時代もありました。昭和十七、八年になると活躍した選手も次々に出征して若者の声は聞かれなくなって運動会も中断してしまいました。
戦後間もなく復活したのですが、青年団が消えるようになくなってからは優勝旗は現役の面影を残したまま、活躍する日を夢みて狭山分団に保管されております。
(p130~132)