坊701(大宝元)年
・1月下旬、遣唐使が任命される。目的=日本が文物の儀の備わる一人前 の国になったこと(次の4項目)の東アジア世界への宣言
①藤原京の完成 ②大宝律令の完成 ③銭貨(富本銭)の使用 ④「日本」国号の宣言(平城京と木簡の世紀p80)
・2月1日、大宝律令が施行された。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂され た。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は 唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
・国・郡・里制が施行される。評は郡となった
702(大宝2)年
・4月13日、詔して、諸国の国造をつとめる氏族を指定した。その氏族の 名前は「国造記」に詳しくのせてある。(続日本紀 上p50)
・6月末、遣唐使出発
・10月、遣唐使長安に到着
・12月、持統天皇(天武天皇の皇后)死去。荼毘に付され火葬墓が登場
・美濃国の岐蘇道(東山道)ができる(国立市史年表)
703(大宝3)年
・4月4日、従五位下の高麗の若光に王(こにしき)という姓を賜った。
・7月13日、災害除去のため、四大寺で金光明経を読ませる。
・7月5日、最初の武蔵国司に引田朝臣祖父(ひきだのあそんおおじ)が任命(守)される。(続日本紀上p61 )
・庚午年籍を戸籍の原簿とする(国立市史年表)
・12月、持統天皇、夫天武の眠る檜隈大内山陵(ひのくまおおうちのみささぎ)に合葬
704 (慶雲元) 年
・5月10日、祥瑞の慶雲が現れたとして、慶雲に改元
・5月16日、武蔵国が飢饉であったので、物を恵み与えた。 (続日本紀上p66)
・7月1日、遣唐使帰国、太宰府着。目的の①~③が唐の実態とずれていて、慶雲の改革を呼ぶ。(平城京と木簡の世紀p82)
705 (慶雲2) 年
・不作により出挙の利息を免じ、調を半減する
706 (慶雲3) 年
・9月25日、文武天皇難波に行幸(遷都に向けての視察)
707 (慶雲4) 年
・東大和市豊鹿島神社創建伝承
・6月、文武天皇死去(25才)
・11月、文武天皇の葬送儀礼終了、平城遷都への体制整備
708(和銅元)年
・1月11日、武蔵国・秩父郡から自然銅が貢進され、年号が「和銅」と改められる。(続日本紀上p97)
・2月15日、平城京への遷都の詔が出される
・3月13日、正五位下当麻(たぎま)真人桜井が武蔵守に任じられる。(続日本紀上p101)
・5月、和銅銀銭を発行
・8月、和銅銅銭を発行、760年に万年通宝が発行されるまで流通
・9月、越後国に出羽郡を設ける。
まだ郡が置かれていないところには、まず柵を築いてその土地の蝦夷を服従させ、その後に郡を設けた。
709(和銅2)年 飛鳥時代終わり
・3月、蝦夷の反乱。反乱を起こした越後国に「征越後蝦夷将軍」(せいえちごかいしょうぐん)が、
陸奥国の動揺を鎮めるために「陸奥鎮東将軍」が派遣される。
○遠江、駿河、甲斐、常陸、信濃、上野、陸奥、越前、越中、越後の十ヵ国から兵士の徴発が行われる(平城京と木簡の世紀p100)
○708年の出羽郡設置は、後年の出羽国建置を前提にした施策だったが、これに反発して越後国で反乱が起きた。
・8月、和銅銀銭を廃止、銅銭に一本化
710(和銅3)年 奈良時代開始
・3月10日、藤原京から平城京(奈良)へ遷都 (続日本紀上p118)
・710平城京→784長岡京遷都→794平安京=奈良時代
・奈良時代(710年―794年)は、
710年(和銅3)に元明天皇が平城京に都を移してから、784年の長岡京遷都を経て、
794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの84年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。
奈良の地に都(平城京)が置かれたことから奈良時代という。
・平城京遷都の少し前から奈良時代の終盤までを「天平時代」という。
・794→1192(頼朝鎌倉幕府開府)=平安時代
◎・廻田谷ッ遺跡(場合によっては13世紀以降、鎌倉時代まで下がる可能性もある)
◎この頃、国府が成立(府中市パンフレット武蔵国府跡)
8世紀前葉~前半=国府の成立期(新版 府中市の歴史p128)
711(和銅4)年
・上野国多胡碑建つ(国立市史年表)
712(和銅5)年
・1月、太安万侶 古事記を完成
・1月16日、「諸国の役民にして郷に還る日、食糧絶え乏しく多く道路に 饉え溝壑(がく)に転填するもの其の類少なからず。国司等宜しく勤め て撫養を加え量りて賑恤すべし。如し死ぬる者あらば、且加埋め葬りて 其の姓名を録し本属に報ぜよ。」 (続日本紀上p127 日野市史通史編1p249)
・越後国の出羽郡を出羽国とする。
陸奥国の最上・置賜両郡を出羽国に移す。
新たに置かれた出羽国には、2年後の和銅7年や霊亀2年に、尾張・信濃・上野・越前・越後などの国から移民政策がとられた。
・4月、郡司の任用試験の対象範囲を大領・小領からから四党官全員に拡大、郡司や人民の評価基準制定
⇒租税収入の確保が良き郡司の条件とする(平城京と木簡の世紀p127)
713(和銅6)年
・5月2日、畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。
郡内に産出する金・銅・彩色(絵具の材料)・植物・鳥獣・魚・虫などのものは、詳しくその種類を記し、
土地が肥えているか、やせているか、
山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や異(かわ)った事がらは、
史籍に記載して報告せよ。(続日本紀上p140)
・風土記撰進の詔 常陸国のものが伝えられる。
その冒頭に、昔は相模国の足柄の坂の東の諸国はすべて「我姫の国」(あづま)といったということを記しでいる。
坂東八ヵ国とは、相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥の国である。
安房・石城(いわき)・磐代(いわしろ)などの国は後に分置されたのであった。
・5月11日、相模・常陸・上野・武蔵・下野の五国の輸納する調(みつぎ)は、本来は麻布であったが、今後はあしぎぬも合せて上納するように。 (続日本紀上p141)
・陸奥国に新たに丹取郡を設ける。
714(和銅7)年
・10月1日、美濃・武蔵・下野・伯者・播磨・伊予の六か国、大風の被害 により、この年の租と調が免除される。(国立市史年表)
◎和銅年間ころより、百姓運脚に苦しむ情況が顕著になる。また、浮浪・ 逃亡も増加する(国立市史年表)
○諸国の正倉が大中小の規格に統一される。⇒中央による稲の掌握が強化 される(平城京と木簡の世紀p128)
715(霊亀元)年
・2月14日、武蔵守であった当麻(たぎま)真人桜井が死去。 (続日本紀上p157)
・大神狛麻呂、武蔵国司となる(国立市史年表)
・5月25日、摂津・紀伊・武蔵・越前・志摩の五か国、飢饉により賑貸を 受ける。(武蔵野351p54)
・5月30日、相模、武蔵など六国の富民1000戸が陸奥国に配される。(冊 戸 きのへ)(続日本紀上p162)
・相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の6国の富民千戸を陸奥国北部に移し、「黒川以北十郡」を設ける。
黒川以北十郡は、牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、賀美、黒川の郡を指す。
・郷里制が施行される。717年説あり。
里は郷と改称、このもとに小区分された下級組織としての「里」が新たに置かれた。(国立市史通史編1p231)
716(霊亀2)年
・5月16日、高麗郡建郡 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七 国の高麗人1799人を武蔵国に移す(続日本紀上p174)。
・山口貯水池に沈んだ「勝楽寺村」には高麗郡との関連を考えさせる伝承がある。(仏蔵院)
・8月、15年ぶりに遣唐使の任命が行われる、遣唐押使に多治比県守、翌年出発、718年末帰国。
・多治比県守、武蔵国司として活動する(国立市史年表)
717(養老元)年
・3月、遣唐使に阿部仲麻呂、吉備真備、玄肪を派遣する。(稲城市の歴史年表p16)
・4月、百姓の私度を禁止。僧尼令に基づき僧尼の行動を厳しく規制。
行基の布教を禁圧。
・郷里制が施行される(平城京と木簡の世紀p137)
718(養老2)年
・陸奥国から、石城(いわき)・石背(いわせ)両国を分立。
石城国←[陸奥国]石城・標葉・行方・宇太・日理 [常陸国]菊田
石瀬国←[陸奥国]白河・石背・会津・安積・信夫
陸奥国北部に設けた黒川北十郡の経営に集中するためこの2国を陸奥国 から分けるが、人と物資の供給に不便が生じた為、短期間で陸奥国に併合される。
719(養老3)年
・按察使が置かれ、武蔵国守多治比県守が相模、上野、下野3国を管する。
720(養老4)年
・日本書紀完成
・蝦夷の反乱で、陸奥国に「持節征夷大将軍」が派遣される。
721(養老5)年
・1月、長屋王右大臣、多治比池守が大納言に昇進、長屋王首班政権誕生
・下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍が残る。 大嶋郷は3つの里から構成されている。(国立市史通史編1p232)
723(養老7)年
・4月、田地開墾のため三世一身法を施行する
・7月、太安万侶死去
・10月、左京から、両眼の赤い白亀が献上される。祥瑞の亀の出現で政治 的変革が予測される。
724(神亀元)年(げんき)
・2月4日、神亀と改元、同日、聖武天皇即位
・4月14日、坂東の九ヵ国の兵士三万人に、乗馬・射術を教習させ、布陣 の仕方を訓練させた。
また、あやぎぬ二百疋・絮(し)千疋・真綿六千 屯・麻布一万端を陸奥の鎮所に運んだ。(続日本紀上p261) =坂東の初出(平将門の乱p23)
・陸奥に多賀城を築く。(平将門の乱p23)
陸奥国府・鎮守府として創建 され、古代東北地方の政治・軍事の中心地であった。(多賀城市HP)
・多賀城碑が、鎮守府将軍大野東人によって、神亀元年(724)に初めて多賀城をこの地に築いたことを伝える。
725(神亀2)年
・渤海の使者日本に至る。
・陸奥国の、朝廷支配下に入った蝦夷(俘囚)144人を伊予国に、578人を筑 紫に移す。
・上野国金井沢碑建つ (国立市史年表)
728(神亀5)年
・12月、国家平安のため、新たに金光明経10巻を諸国に頒ち、転読させる。
・陸奥国が新たに白河軍団を設け、丹取軍団を改めて玉作軍団とする。
ここでの「軍団」は、律令制による軍事・警察機構。中央の兵部省が管 轄した。
729(天平元)年
・2月10日~12日、長屋王の変起こる(54才) 、罪状は国家転覆罪
・2月13日、長屋王葬儀。聖武天皇は事件に関わる縁座を最小限にする= 何らかの背景がある。(平城京と木簡の世紀p148)
・3月、藤原不比等の長子智麻呂が中納言から大納言に昇進、長屋王に替 わって政治の中心を藤原四兄弟が握る
・6月、「天王貴平知百年」の文字を甲羅に持つ亀が左京職から献上される
・8月5日、天平に改元
・東大寺法華堂の本尊、不空羂索観音立像の足元にある八角須弥壇の部材 が729年に伐採されていたと判明。
年輪の状況から、法華堂の創建時 期は730年代前半とする見方が強まった。(2011年9月10日朝日)
731(天平3)年
・布勢国足、武蔵国司となる(国立市史年表)
◎武蔵国衙の諸施設8世紀第Ⅱ四半期(726~750)に整備される
732(天平4)年
・藤原房前、東山・東海道節度使となる(国立市史年表)
・筑紫の防人を本国に帰す(国立市史年表)
733(天平5)年
・調布市深大寺が『深大寺縁起』によると、天平五年(七三三)の創建となっている。(調布市史上p243)
○長弁の『私案抄』に収める「深大寺深沙大王宝前の戸張奉懸の意趣書」によると、天平宝字六年(七六二)の草創とされる。(調布市史上p438)
・7月14日付、御成小学校校庭(鎌倉郡衙跡)から付札木簡出土。 鎌倉に律令制がひかれていたことを示す
・9月付、綾瀬市で付札木簡出土。鎌倉郡鎌倉郷鎌倉里。
734(天平6)年
・大地震起こり、被害甚大。
735(天平7) 年
・疫病(天然痘)・飢饉起こる
・相模国封戸粗交易帳(ふこそきょうやくちょう)に鎌倉郷30戸が皇族の 一人に封戸(=食封)として支給される
=律令体制の東国支配
736(天平8)年
・疫病(天然痘)・飢饉起こる
737(天平9)年
・諸国の国ごとに釈迦仏を安置せよの命が下る
国ごとに釈迦仏像1体、扶侍菩薩(きょうじぼさつ)2体を造り、大般若経を1部を写させる。
◎737~741年の間に武蔵国分寺の建設開始か。ふるさと国分寺の歩みp54
・天然痘が流行、九州から近畿地方まで広まる。死者多数
・藤原四兄弟(房前、麻呂、武智麻呂、宇合(うまかい)没。
738 (天平10)年
・8月、国郡図を作成する。(稲城市の歴史年表p16)
・多治比広足、武蔵国司となる(国立市史年表)
・国家隆平のため、諸国に最勝王経を講読させる。
・駿河国正税帳(国司から太政官に提出される決算報告)
739 (天平11)年
・天平11年~12年、下級組織としての「里」が廃止されて郷制に改編される。
=国・郡・郷の行政区画となった。(国立市史通史編1p231)
740 (天平12)年
・聖武天皇、国ごとに法華経10部を写し、七重塔を建てさせる。
・藤原広嗣の乱。
・12月、聖武天皇が平城京より恭仁京(くにのみやこ 現在の京都府木津川市加茂町付近)に遷都。
741(天平13)年
・聖武天皇、国分寺建立の詔を発する
◎国分寺建立の詔以前からすでに塔を中心とした伽藍が計画されていた。(東村山市史通史編上p328)
発掘調査によりわかっている(東村山市史通史編上p331)
◎武蔵国分寺の建設が始まったのは詔などの関連で737~741(天平9~13年)の間と考えられている。
(ふるさと国分寺の歩み p54)
◎新羅郡建郡以前に、武蔵国分寺創建。
757(天平勝宝9)武蔵国分寺跡地 尼寺西方(都立府中病院構内)から漆紙の暦(具注歴)発見、
この時期には 国分寺建設がほぼ出来上がりの段階にあったことを告げる。(ふるさと国分寺の歩みp55)
○東村山市 瓦塔制作はこの時期か?(東村山市史上p331)
○川崎市麻生区黒川の宮添遺跡から八世紀後半から九世紀初頭頃の集落が発掘され、瓦塔片が出土
(村田文夫 古代の南武蔵 有隣新書 45 p203-204)
742 (天平14)年
・紫香楽宮(しがらきのみや・近江国甲賀郡紫香楽村)を造営。
743(天平15)年
・10月、聖武天皇、庶舎那大仏造立を発願、詔を発布。
・5月27日、墾田永年私財法を制定。
744 (天平16)年
・2月26日、難波宮が皇都と定められた。
・7月23日、天皇が詔を出した。国ごとに正税4万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。(続日本紀 中 p29)
・巡察使、東山・東海道をまわる(国立市史年表)
745(天平17)年
・5月から地震が続いた。
・平城京に遷都。
746(天平18)年
・紀清人、武蔵国司となる(国立市史年表)
・藤原豊成は東海道鎮撫使、藤原仲麻呂は東海道鎮撫使となる(国立市史年表)
747(天平18)年
・東大寺大仏殿の建設を始める。
国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、3年以内の完了を命ずる。
僧寺に水田90町、 尼寺に同40町を追加旋入。百姓の造塔を請願するものこれを許す。
・新薬師寺が聖武天皇眼病平癒祈願の為勅願により光明皇后によって建立 される。
748(天平19)年
・国分寺の工事を進めない国司を督促し、諸国に調査官を派遣したり、郡司のなかで造営担当者を決めさせたりして、
三年以内に七重塔・金堂・ 僧坊を建て終えるよう命じている。(律令国家と万葉びとp332)
749(天平勝宝元)
・諸寺の墾田地の限度を定め、諸国国分僧寺1000町、尼寺400町とする。
750 (天平勝宝2)
頃、平城京の城壁が造られた。発掘の結果から大仏開眼に併せて外国使節を迎えるための突貫工事ではないかという。→
・高麗福信が高麗朝臣(あそん)の姓を賜る
751(天平勝宝3)
・東大寺大仏殿完成。
・この年完成した「懐風藻」に高麗福信が長屋王邸で新羅の客唱和した詩 作が一首残されている。(東村山市史上p325)
752(天平勝宝4)
・東大寺大仏開眼
・従四位上平群朝臣広成(へぐりのあそんひろなり)、武蔵国司となる(国立市史年表)
755(天平勝宝7)万葉集
・この年、防人が交替、その時のもの84首と昔年の歌9首(巻第20)が万葉集防人の歌に収録されている
・2月20日、武蔵国の部領防人使である掾(じょう)正六位上安曇宿禰三国(あずみのすくねみくに)によって、時の兵部少輔であった大伴宿禰 家持に進上された。
・万葉集の編纂
編纂は一時にされたものではなく、大体三回にわたってなされたものであるという説もある。それによると
第一回は、巻一から巻十六までで、 天平十八年(七四六)から天平勝宝五年(七五三)までの間に成立、
第二回は、巻十七以下が天平宝字三年(七五九)六月から八年正月までに成立、 同時に旧十六に手入れを加え、
第三回は、全二十巻に宝亀八年(七七七) 一月から九年一月にかけて手入れを加えて成立したものであるという。
・万葉集製作の時期
巻二の初めにある仁徳天皇の時代の磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)の歌と伝えられているものが最も古く、
巻二十の巻末にある家持の天平宝字三年(七五九)正月一日の作が最も新しいということになる。
その間のおおよそ四百五十年という長い期間が万葉集時代ということになるわけであるが、
仁徳天皇から推古天皇(三五二―六二八)までの歌は極めて少く、かつまたその作者についても疑わしい点が多いので、
正確な意味の万葉集時代というのは舒明天皇(六二九―六四一)から淳仁天皇の天平宝字三年に至るまでの約百三十年間ということになる。
政治史の上でいうならば大化改新の直前から、奈良時代の中期までである。
(木俣修 万葉集 時代と作品 NHKブックス 1994 p19-30)
756 (天平勝宝8)
・聖武太上天皇崩御。聖武太上天皇一周忌斎会のため、工人を諸国に遣わ し、国分寺の丈六仏像(高さ1丈6尺=4,85㍍)の造仏の造作状況を見聞させ、督促を行う。造仏殿、造塔を促す。
翌年5月2日の聖武太上(だいじょう)天王の一周忌までに、丈六仏像とこれを安置する仏殿を造り終えるように命じ、終えていれば、塔を作るように指示をしている。(律令国家と万葉びと p332)
二六ヶ国に灌項幡一具・道場幡四九首・緋綱二条を領つ。
・従四位高麗朝臣福信が武蔵守となる
757(天平勝宝9)(天平宝字元)
・東国防人の派遣が停止される。
・養老律令施行する(国立市史年表)
・府中市武蔵台遺跡出土の漆紙文書「具注暦」が作られる(国立市史年表)
・武蔵国分寺跡地から漆紙の暦発見。この時期には武蔵国分寺建設がほぼ出来上がりの段階にあったことを告げる。
・橘奈良麻呂の乱
758(天平宝字2)
・8月24日、新羅郡建郡
帰化した新羅の僧俗人74人(僧32人、尼2人、男19人、女21人)を武蔵国の未開発地に移住させた。
ここに、初めて新羅郡を設置した。(続日本紀中p205)
・国分二寺に金剛般若経を安置し、金光明経にそえ転読させる。
・問民苦使の藤原浄弁、東海・東山道を巡察し、実情を報告する(国立市史 年表)
・国司交替を6年とする(国立市史年表)
・8世紀中葉の作と考えられる「瓦塔」を東村山市で発見(多摩湖町)
・8世紀後半、国立市仮屋上付近に集落が展開する。
「武蔵、国多磨・羊」を線刻した石製紡錘車は、この頃の遺物(仮屋上遺跡)である(国立市史年表)
759(天平宝字3)
・従五位下三島真人盧原を武蔵介となす。
・国分二寺の図を諸国に頒つ。どのように建てるのかが及ばない地方があった事を示す。(律令国家と万葉びとp332)
▼・東国等の浮浪人2千人を雄勝の棚戸とする(国立市史年表)
760(天平宝字4)
・4月28日、帰化した新羅人131人を武蔵国に定住させた。 (続日本紀中p248)
761(天平宝字5)
・諸国国分尼寺に阿弥陀丈六像1体・脇侍菩薩2体を造らせる。
・従五位下高麗朝臣大山が武蔵介に任命される。(日野市史通史編1p234)
・新羅征討のため、武蔵の少年20人に新羅の言葉を学習させる(国立市史 年表)
762(天平宝字6)
・深大寺の創建 長弁の『私案抄』に収める「深大寺深沙大王宝前の戸張 奉懸の意趣書」によると、天平宝字六年(七六二)の草創とされる。(調布市史上p438)
▼○『深大寺縁起』によると、天平五年(七三三)の創建となっている。(調布市史上p243)
763(天平宝字7)
・5月6日、鑑真和上が逝去した。(続日本紀 中p296)
764(天平宝字8)
・3月9日、武蔵守・従四位下の石川朝臣名人(なひと)が卒した。 (続日本紀中p308)
・正五位上石川人成が武蔵国司になる
・国都司の国分寺家収納の財物犯用を戒める。
・恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の鎮圧に武蔵国入間郡の人物部(入間)広成が活躍する。
・藤原仲麻呂の乱。
765(天平神護元)
・4月13日、常陸・武蔵の二か国、飢饉により賑給を受ける。(国立市史 年表、武蔵野351p54)
766(天平神護2)
・従五位下巨勢朝臣公成(こぜのあそんきみなり)を武蔵守となす。
・諸国に朽損、傾落した国分寺の塔・金堂の修理を命じる。
・大宮氷川神社、封戸3戸を受ける
767 (神護景雲元)
・2月28日、藤原雄田麻呂(おだまろ)が右兵衛督(うひょうえのかみ) を兼任した記事がのる。
この時の官職が左中弁・侍従・内匠頭(たくみ のかみ)・武蔵介・従五位であり、実際には武蔵国に赴任せず、在京のまま遙任されたと考えられる。
(続日本紀中p399)
・3月20日、造宮郷・但馬守・従三位の高麗朝臣福信に大夫を兼任させた (続日本紀中p401)
・12月6日、武蔵国足立郡の従五位下の丈部不破麻呂(はせつかべふはま ろ)ら6人が武蔵宿禰(すくね)の姓を与えられた。
=道鏡の地方豪族優遇策。
丈部は武蔵武芝の祖先。稲荷山古墳のオワケ 臣と深い関係があるのではないか。
更級日記の「武芝寺」は大久保領家道場寺院跡(さいたま市水判土・み ずはた、大久保地区)ではないか
(宮滝1995 平将門の乱 川尻秋生 p75)。
・12月8日、不破麻呂が武蔵国造に任じられた。(続日本紀中p417)
768(神護景雲2)
・2月18日、藤原雄田麻、武蔵国司となる(国立市史 年表) (続日本紀中p421)
・3月1日、下総国の井上・浮嶋・河曲の3駅と武蔵国の乗瀦・豊島の2 駅は、東海・東山両道につながる駅なので、公使の送迎など頻繁であります。
どうか中路(山陽道が大路、東海・東山が中路、その他は小路)に準じて馬10疋を配置されるように希望します。
この申請が太政官で審議され、許可になった。(続日本紀中p423)
・6月21日、橘樹郡の飛烏部五百国が、久良郡で白雉を捕らえて朝廷に献上、
これにより、武蔵国の天平2年以降の未進の正税と久良郡の当年の田租の3分の1が免除される。(続日本紀中p427)
・7月11日、武蔵国入間郡の人で、正六位上・勲五等の物部広成ら六人に入間宿禰(すくね)姓を賜る(続日本紀中p431)
(藤原仲麻呂を愛発関(あらちのせき)で破ったことによる)
769(神護景雲3)
・9月17日、武蔵国入間郡の正倉四棟が神火により焼失する(武蔵野 351p54)
・入間郡の人大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)が西大寺に布・ 稲・墾田などを献上する。
770(宝亀元)年
・高麗福信が再び武蔵国守に任じられる。(東村山市史上p325)
771(宝亀2)年
・10月27日、武蔵国が東山道から東海道に転属される(続日本紀下p75)
・この頃、蝦夷の反乱多発し、武蔵国から兵士・物資の徴発が相次ぐ(国立 市史 年表)
772(宝亀3)年
・入間郡の谷田部黒麻呂が孝養を賞せられて戸徭を免除される
・9月17日、正倉神火事件起こる。
入間郡の止倉の焼失に関して、太政官が神祇官に天平勝宝7年の符に基 づき、
多磨郡小野社・加美郡今城青八尺稲実社・横見郡高負比占乃社・入間郡出雲伊波比社に班幣を与えるよう伝える
(入間郡の正倉が雷神により焼けるとの理由だが、郡司層の争いと考えられている)
・太政官符に多摩郡小野社の名が見える。(府中市の歴史p173)
773 (宝亀4)年
・人間郡の正倉焼失の罪によって、人間郡司ら解任される。
774 (宝亀5)年
・陸奥国で蝦夷反乱。桃生城が侵略される。
・藤原浜成、武蔵国司となる(国立市史 年表)
775(宝亀6)年
・武蔵国の少目が2名に増員される。
776(宝亀7)年
・出羽国で志波の蝦夷反乱。
陸奥国で胆沢の蝦夷反乱。
777(宝亀8)年
・武蔵国などが甲200領を出羽国に送る。
・神護景雲3年に西大寺に商布などを献進した功績により、入間郡の大伴 部赤男に外従五位下が追贈される
六月五日 武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男は、神護景雲三年(769)に、 西大寺に商布(交易用の麻布)一千五百段・稲七万四千束・墾田四十町・ 林六十町を献上した。今はすでに死亡しているので、外従五位下を追贈 した。(続日本紀)
778(宝亀9)年
・高麗福信の子、高麗朝臣石麻呂は実際に赴任
▼・笠王、武蔵国司として活動する(国立市史 年表)
779 (宝亀10)年
・高麗福信が高倉朝臣と改姓
780 (宝亀11)年
・3月22日、多賀城に侵入した砦麻呂(あざまろ)軍が、争って府庫(倉庫) のものを取り、貴重なものを残さず略奪して去り、
そのあと残ったものには、火を放ち焼き払った」 (続日本紀)
この乱で、蝦夷出身の伊治公呰麻呂が按察使参議紀朝臣広純を殺し、大伴真綱を追って多賀城を焼いた。
発掘調査によって、この時の火災が広 範囲にわたり、政庁地区では正殿はじめほとんどの建物が罹災していることがわかっている。
・7月、藤原継縄を征東大使とした征討軍、不調。
・9月、藤原小黒麻呂を征東大使とした征討軍、不調。
781(天応元)年)
・富士山噴火(年表にみる多摩p20)
富士山噴火(NHK 富士山の誕生と噴火の歴史)
・相模・武蔵などの穀10万石を陸奥軍所に漕送。
・石川真守、武蔵国司となる(国立市史 年表)
782(延暦元)年
・3月13日、武蔵・淡路・土佐等の国、飢饉により賑給を受ける。(国立市史年表 武蔵野351p54)
783(延暦2)年
・高倉朝臣が三度、武蔵守となる。
・持節征東将軍に大伴家持が任ぜられる。
「持節」とは、天皇から刀(節刀)を与えられ長官職に就いた場合をいい、天皇の権限が代行されたことを意味する。
784(延暦3)年
・平城京から長岡京(山背国)へ遷都
・広成が時節征東軍監(じせつせいとうぐんげん)・征東副将軍となり桓武天皇の蝦夷攻略に当たる。
武蔵の農民が武士として徴用された。
785(延暦4)年
・石川垣守、武蔵国司となる(国立市史 年表)
・近江国分寺焼亡。
786(延暦5)年
・阿保人上、武蔵国司となる(国立市史 年表)
787 (延暦6)年
・4月、武蔵宿禰家刀自(やかとじ)=采女が死去 足立郡の従五位下の丈部不破麻呂と同族
788 (延暦7)年
・3月3日、坂東などの諸国に歩兵・騎兵52800余人の徴発が命じられる。
・3月21日、外従五位下入間宿禰広成が征東副使に任じられた
・6月25日、外従六位下武蔵宿禰弟総、私財を貢献し外従五位下を授かる(いずれも続日本紀)
・石川豊人、武蔵国司となる(国立市史 年表)
789(延暦8)年
・3月9日、諸国の軍兵が陸奥国の多賀城に集結し、道を分けて賊地に攻 め入った。(大墓阿テ流為(あてるい)
・6月3日、征東将軍の紀朝臣古佐美から奏上があった。
広成軍が胆沢で奇襲に遭い、その時の戦死者25名、負傷者245名、溺死者1036名、裸で泳ぎ着いた者1257名の軍隊であったことが記されている。
・9月19日、広成ら全員が敗戦の責任を認めた。官職及び位階が剥奪され た。(続日本紀下p413 東村山市史上p337)
胆沢での戦いは延暦5年から4年間続いた。
・10月17日、高麗(肖奈・高倉)福信が没する。略歴などが続日本紀に 書かれている。
790(延暦9)年
・2月26日、外従五位下の入間宿禰広成などが従五位下の位を得る。(続日本紀下p428)
・9年から14年まで、胆沢と志波の蝦夷と戦い続く。
征夷大使大伴弟麻呂と副将軍坂上田村麻呂が派遣される。討伐軍は10万 の規模。
・10月21日、今の坂東の国々は、長年の戦役で疲れています。強壮の者はその体力を軍に捧げ、貧弱な者も兵糧輸送の任で兵役に赴いていました。
ところが、裕福な者は不公平にもこの苦労を免れて、前・後(宝亀・ 延暦)の戦役にもその苦労を経験したことがありません。(続日本紀下p442)
・11月27日、坂東の諸国、軍役・疾病・旱越により、この年の租が免除される。(武蔵野351p54)
◎8世紀末以降の関東の荒廃振りを生々しく伝える。
791 (延暦10)年
・多治比宇美、武蔵国司となる(国立市史 年表)
◎延暦年間、多賀城をめぐり、蝦夷との戦いが激化し、武蔵国,徴兵などで戦争に巻き込まれる(国立市史 年表)
792 (延暦11)年
・諸国の軍団、兵士が廃止され、健児となる。
相模国に100人、武蔵国には105人(150人)が配置
794(延暦13)年 平安時代開始
・長岡京から平安京へ遷都
平安時代開始→1192頼朝が鎌倉幕府開設
795(延暦14)年
・武蔵介都努筑紫麿らが官物を隠蔽した罪により免官される。
・東国の防人が停止される
・足立郡大領武蔵宿祢弟総が武蔵国造に任命される
796(延暦15)年
・相模などの婦女を陸奥に遣わし、養蚕を教えさせる。
・11月21日、相模・武蔵などの民9000人を陸奥伊治城に移す。
・坂上田村麻呂、陸奥出羽按察使陸奥守兼鎮守将軍の三官を兼任。
陸奥と出羽における行政・軍事を完全に委ねられる。
797(延暦16)年
・3月29日、武蔵・土佐国、飢饉により賑給を受ける。(武蔵野351p55)
・相模と甲斐の国境が定まる。
・坂上田村麻呂が征夷大将軍として3万の軍を率いて多賀城に至る。
798(延暦17)年
・相模・武蔵などの夷俘に毎年、時服などをあたえる。
・藤原道男、武蔵国司となる(国立市史 年表)
800(延暦19)年
・3月14日、富士山が噴火、4月18日まで続く(武蔵野351p55)
断続的に3年間続く(国立市史年表)