801(延暦20)年 ~900年

801(延暦20)年

・坂上田村麻呂が蝦夷征討。田村麻呂に節刀が与えられる。

802(延暦21)年
 
・5月19日、富士山の噴火により足柄路を廃し、筥荷(箱根)路を開く(翌 22年5月8日、足柄路に復する)(武蔵野351p55)
 富士山噴火(NHK 富士山の誕生と噴火の歴史)
・胆沢の蝦夷を平定し、胆沢城を造る。
 胆沢城が造営されると、多賀城に置かれていた鎮守府が胆沢城に移った。 
 鎮守府が多賀城にあったとき、その役職は陸奥出羽按察使・陸奥守と兼 任させる必要から高い官位を保持していたが、鎮守府が胆沢城に移り、 
 鎮守将軍が単独に任命されるようになると、官位を一段下げ、時には陸 奥介(次官)を兼任させることもあった。
・胆沢に移った鎮守府は、国府より若干下位の位置づけながら、独自性を徐々に強め、国府と地域を分担するような形で胆沢の地を支配したと考えられる。

805(延暦24)年

・桓武天皇、征夷の中止を決定。
  長く続いた戦乱により、国家の財政的な問題、東国・東北地方の人々の 疲弊などが生じ、征夷の中止が決定された。

806(大同元)年

・武蔵国、白鳥を献上する(国立市史 年表)
・藤原内麻呂、武蔵国司となる。その後、8年間に藤原真夏・春原五百枝・安倍鷹野・磯野王・吉備泉・坂上鷹養と交替する(国立市史 年表)

811(弘仁2)年

・嵯峨天皇のころ、文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられる。
  尓薩体(にさて)・閉伊(へい)地方を平定した。

818(弘仁9)年

・7月、相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野等の国、地震により山谷が数里にわたって変容し、多数の百姓が圧死する。
 (類聚国史・菅原道真編 集 武蔵野351p55)
◎上野・下野の山地で大規模な山崩れが発生した。また、深谷市周辺の古代 集落で「噴砂」の跡が確認される。(坂詰 武蔵野351p27)
◎起震断層の可能性 群馬大学熊原康博

819(弘仁10)年

・飛騨・遠江・相模国分寺焼亡。

820(弘仁11)年

・遠江・駿河の新羅人擾乱、相模・武蔵などから派兵。
・近江国、定額国昌寺(じょうがくこくしょうじ)を国分寺とする。

825(天長元)年
 
・大伴国道、武蔵国司となる。その後、5年間に藤原綱継・大伴国道・石川河主と交代する(国立市史 年表)

827(天長4)年

・武蔵国空閑地220町歩を勅旨田として開墾

829(天長6)年

・武蔵国の空閑地290町を西院勅旨田とする(国立市史 年表)

830(天長7)年

・武蔵国の空閑地220町を勅旨田とする(国立市史 年表)
・1月、出羽で大地震(武蔵野351p27 坂詰)

832(天長9)年

・文室秋津、武蔵国司となる(国立市史 年表)

833(天長10)年

・5月、武蔵国の要請により、多磨郡と入間郡の境に悲田処が置かれる。 
 運営費は、介当宗宿弥家主以下少目大丘秋主ら6人の匡同の公解を割いて、それを出挙して充てることが認められる
・武蔵国など12ヵ国から相撲人を選び、貢進させる(国立市史 年表)

834 (承和元)年

・武蔵国の荒廃田123町を冷然院にたまう(国立市史 年表)

835 (承和2)年
 
・武蔵国分寺の七重塔、神火により焼失する(同12年3月23日、前男裳郡司が再建を申し出て、許可される)。(武蔵野351p55)
・岩瀬河(多摩川)と住田河(隅田川)の渡船をそれぞれ3艘と4艘に増やす。

836(承和3)年

・伊豆国分尼寺焼亡。その後、定額寺(大興寺)を尼寺とする。

838 (承和5)年

・武蔵都筑郡の扮山神社、神舐官から幣吊をうける。(神奈川県の歴史)

839(承和 6) 年

・相模・武蔵等関東7国(国分寺)に一切経1部を写させる。

840(承和 7) 年

・相模大住郡大領壬生広主窮民に代わって私稲を代納する。
・正道王、武蔵国司となる。その後、7年間に源信・田口佐波主・佐伯利 世・丹堀門成と交替する(国立市史 年表)

841 (承和 8) 年

・5月、男衾郡の大領・壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)が二人の息子の生涯分の税を一括前納する
8月4日、相模高座郡大領壬生黒成、調庸正税を代納し、窮民に施しをあたえる。
・信濃、伊豆で大地震(武蔵野351p27 坂詰)
・加賀国、勝興寺を国分寺とする。

843(承和10) 年

・6月25日、伊賀・尾張・参河・武蔵・安房・上総・下総・近江・上野・ 陸奥・越前・加賀・丹後・因幡・伯書・出雲・伊予・周防等の18か国、飢饉により賑恤を受ける。(武蔵野351p55)
・那珂郡が戸口増加により小郡から下郡に改められる。
・能登国、定額大興寺を国分寺とする。

844(承和11) 年

・この年、相模介橘永範、愛甲郡に救急院をつくる。

845(承和12)年

・前男衾郡の大領外従八位上・壬生吉志福正が武蔵国分寺七重塔再建を願い出て許される(続日本後記)
◎これは創建期の塔ではなく、塔2(西約55㍍)と考える。これは、完成されなかった。(坂詰 武蔵 野351p28)
・丹塀門成(たじひかどなり 丹波国で恐怖政治を行う)武蔵権守として赴任、武蔵国の風俗粛正を成し遂げる。
 翌846年、武蔵守となる。(新版 府中市の歴史p155)

846(承和13)年

・丹塀門成、武蔵守となる(武断政治)(東村山市史史年表p1047)
・多磨郡狛江郷刑部広主の妻が節婦として褒賞される。
・相模寒河神、従五位下に叙せられる。

847(承和14)年

・武蔵国中院の僧長安、一切経を書写(法隆寺蔵大菩薩蔵経巻十三奥書)

848(嘉祥元)年

・2月、上総国で俘囚丸子廻毛が反乱を起こす。 相模など5カ国、上総の俘囚丸子廻毛の追討を命じられる。

849(嘉祥2)年

・橘本継、武蔵国司となる。翌年、丹堀石雄に代わる(国立市史 年表)

850(嘉祥3)年

・出羽国に大地震が発生し、大川(最上川)が崩壊する(仁和3年[887]5月20日)、出羽国司より、嘉祥3年の地震により地勢が変わり、
 海が国府の6 里にまで迫ったので、府を最上郡に移転することを朝廷に言上するが許可されず、近辺の高台に移す。(武蔵野351p55)

853(仁寿3)年

・武蔵・信濃両国(国分寺)に一切経1部を写させる。

854(斉衡元)年

・相模寒河神、従四位下に叙せられる。
・文室笠科、武蔵国司となる(国立市史 年表)

855(斉衡2)年

・相模国、飢饉により政府の援助をうける。

857 (天安元)年

・相模石楯尾神、神祇官から幣吊をうける。

858 (天安2)年

・武蔵国水害
・良岑長松、武蔵国司となる(国立市史 年表)

859(貞観 元)年     

4月7日、武蔵国、去年秋の水害により、賑給を受ける。(国立市史 年表 武蔵野351p55)

860(貞観 2)年     

・武蔵国の正税穀400餅を円仁に賜う(国立市史 年表)

861(貞観 3)年     

11月16日、治安の悪化により「凶猾党を成し、群盗山に満つる」状況から武蔵国の各郡に検非違使(けびいし)を置く(日本三代実録)
・平春香、武蔵国司となる(国立市史 年表)

862(貞観 4)年     

・相模大住郡の荒廃田42町を冷然院にあたえる。
・藤原忠雄、武蔵国司となる(国立市史 年表)
◎貞観・元慶年間、東国の治安が乱れる。群盗横行・俘囚反乱・富士山爆 発・飢饉続発する(国立市史 年表)

864(貞観6)年     

・5月25日、駿河国より、富士山が噴火し、火焔が十日以上続いたことを言上する。(武蔵野351p55)
・7月17日、甲斐国より、富士山が噴火し、溶岩流が本栖湖を埋め、河口湖にまで達したことを言上する。(武蔵野351p55)
 富士山噴火(NHK 富士山の誕生と噴火の歴史)

865(貞観7)年     

12月9日、武蔵国、旱魃と霜害により、課役を免除される。(武蔵野351p55)

866(貞観8)年     

・6月13日、武蔵国、去年の風雨の害、今年の飢饉と旱魃により、賑給を 受ける。(武蔵野351p55)

867(貞観9)年     

・12月、上総国に検非違使1人を置く。
▼・橘春成、続いて藤原安棟,武蔵国司となる(国立市史 年表)

869 (貞観11)年     

・5月26日、陸奥国に大地震が発生する(貞観の三陸沖大地震)。津波が多 賀城下にまで至り、溺死者は千余人に及ぶ。(武蔵野351p55)
・相模寒河神、従四位上に、有鹿神、従五位上に叙せられる。

870 (貞観12)年     

・12月、上総国で俘囚が反乱を起こす。

871(貞観13)年     

・諸国国分寺に一万三千両仏像一鋪(広六幅、高一丈六尺)を安置させる。

872 (貞観14)年     

・武蔵国の権史牛を改め陰陽師と号することが許される。
・橘樹郡の巨勢屎了が節婦として褒賞される

873(貞観15)年     

・陸奥国、蛮夷平定のため武蔵国の例に準じ、五大菩薩像を造り国分寺に安置する。
・相模国、漢河寺を国分尼寺とする。

874 (貞観16)年     

・新たに銅印が造られ、武蔵国に授けられる

875(貞観17)年     

・5月、下総国の俘囚が反乱を起こす。
・7月、下野国で反乱を起こした俘囚27人を殺害する。

877(元慶 がんぎょう元)

・紀安雄、武蔵守となる(武断政治)(東村山市史史年表p1047)

878(元慶2)年     

9月29日、関東の諸国に大地震が発生する。相模・武蔵国が甚大な被害を受ける。
 5~6日間、振動が続き、官私の建物は全壊し、道路は不通となり、多数の百姓が圧死する。京都でも地震を感知する。(武蔵野   351p56)
◎武蔵国分寺の塔1と講堂、中門が倒潰、もしくは甚大な被害を受けている。
◎武蔵国府の国庁建物の建て替え(掘立柱→礎石立→掘立柱)にも影響を与えている。(以上 坂詰 武蔵野351p32)
◎この地震は「立川断層、鶴川断層、伊勢原断層、国府津・松田断層のような縦ずれの活断層」のいずれかの活動と考えられてきたが、伊勢原断層と考えられている。 しかし、立川断層も有力な候補である。(坂詰 武蔵野351p28)
◎立川断層が横ずれである可能性を東郷正美氏が指摘(武蔵野351p8)
◎活断層の活動とは考えられず謎を秘めた地震(坂詰 武蔵野351p28)
・相模・武蔵激震、死者多数、相模国分寺の仏像破砕、尼寺破壊。

879(元慶3)年

・地震で相模国分二寺焼・破損。紀伊国分寺炎上。

881(元慶5)年     

・相模国分寺を修造、旧尼寺を国分尼寺とする。

883(元慶7)年     

・2月、上総国市原郡で俘囚30余人が反乱を起こす。
・6月22日、武蔵国、飢饉により、正税六万束の賑恤を受ける。(武蔵野 351p56)

884(元慶8)年     

・相模寒河神、正四位下に叙せられる。
・尾張国分寺焼損により、定額願興寺を国分寺とする。

885(仁和元)年     

・藤原貞幹、武蔵国司となる(国立市史 年表)

886(仁和2)年     

・天災・兵乱に備え、安房・上総・下総諸国に警護を命じる。

887(仁和3)年

・美濃国分寺焼亡。

889 (寛平元)年     

・4月、賊首物部氏永らが反乱を起こす。その鎮圧に10余年かかる。
・5月、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)が平姓を得、上総介と して赴任、帰国せずに土着、勢力を張る。
◎有力土豪の家々に婿として入り、旧土豪地盤の平和的継承をした。 (東国の兵乱p8)

894 (寛平6)年     

・遣唐使廃止(国立市史 年表)

899(昌泰 2)年     

・しゅう馬党(しゅうばのとう)が東山・東海両道にわたって官物を略奪(9月19日太政官符)
・9月、群盗横行のため、相模国足柄坂・上野国碓氷坂に関を設ける。

900(昌泰3)年     

・5月、上野国の群盗を追捕する。
・武蔵国に群盗蜂起
・国司制度の破綻