10世紀初頭
・谷戸田の経営⇒開発領主、中央貴族、中央軍事貴族の武蔵定着⇒招請婚 により旧土豪地盤の平和的継承⇒武蔵武士の発生。
・武蔵国には、いわゆる「坂東八平氏」といわれる、桓武平氏の流れをくむ強大な武士団=千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾氏などが勢力を増す。秩父氏から畠山、河越、江戸氏などが分かれた。
・清和天皇の流れをくむ源氏は源経基や満仲などが武蔵守になったが平氏のように勢力を東国に伸ばすことはできなかった。
・強大な武士団を縫うように、武蔵七党と呼ばれる中小武士団が活躍した。
・東大和市周辺では武蔵七党のうち村山党(山口、久米、荒波多、宮寺、 加治、金子氏など)が活躍、隣接して、三田、立川氏などが勢力を張っていた。
901(延喜元)年
・2月15日、東国に群盗が横行するため、諸社に奉幣し、祈願する。(武蔵野351p56)
・4月、群盗横行のため、推問追捕使を東国に派遣する。
902(延喜2)年
・延喜の荘園整理令(国立市史 年表)
903(延喜3)年
・秩父牧より秩父御馬が朝廷に献進される。
905(延喜5)年
・宇多上皇の私牧であった当時の秩父牧牧司高向利春が、駒牽の式場で黄褂(きのうちかけ 武官の儀礼用装束に重ねる袖なしのうちかけ)を下賜された。
褒賞の名誉。 (日野市史通史編 1p295)
906(延喜6)年
・藤原邦基、武蔵国司となる(国立市史 年表)
909(延喜9)年
・武蔵立野牧が勅使牧とされる。別当には蔭孫(おんそん)藤原道行が任命された。彼は延喜18年立野牧の「牧司」として政府から表彰されている。
道行の出自は不明だが、蔭孫といわれるからには三位以上の位階をもった政府高官(従三位に相当する官職は太政官の議政官の中納言)の孫である。
おそらく武蔵国の国司として赴任し、任期満了後にも京都へ帰らず留住した人物である。同様の人物に前権介源仕がいる。 (日野市史通史編 1p297)
910(延喜10)年
・秩父牧牧司高向利春が武蔵権少掾(ごんのしょうじょう 現地採用の国 衙の三等官)になる。 (日野市史通史編 1p296)
911(延喜11)年
・秩父牧牧司高向利春が武蔵介(次官)になる。(日野市史通史編 1p296)
915(延喜15)年
・上野介厚載射殺事件起きる。(東国の兵乱p5)
・2月、上野国で上毛野(かみつけぬの)基宗、貞並らに大掾藤原連江(つらえ)らが加わる反受領闘争があり、受領藤原厚載(あつのり)が殺された。
この事件に太政官府は下野国衛(国府)に秀郷とその党18人の配流を 命令、しかし秀郷はそれに従わず国司は強制連行も出来なかった。
・国の長官とその補佐官と在地豪族との間に反目が起こり、武力闘争にまで発展していたことがわかる。(HP)
917(延喜17)年
・藤原高風、武蔵国司となる(国立市史 年表)
918(延喜18)年
・秩父牧牧司高向利春が武蔵守(長官)になる。(日野市史通史編 1p296)
・高向利春、武蔵国司となる(国立市史 年表)
919(延喜19)年
・前武蔵権介源任(さきのむさしごんのすけみなもとあたる・つかう)が 武蔵守高向利春を攻め、武蔵国府を襲撃。官舎を焼く(扶桑略記)。
921(延喜21)年
・この年奏進された延喜式主税寮式に各国の出挙稲(すいことう)が記録 されている。武蔵国欄に「悲田稲四五○○」束の記録がある。(新田義貞 鎌倉攻めと徳蔵寺元弘の板碑p7)
927 (延長5)年
・武蔵国、正税に40万束、国分寺料に5万束を充てる。(延喜式)
・延喜式編纂 狭山丘陵周辺の式内社として多摩郡に阿豆佐味天神社、入間郡に、出雲伊波比(いずもいわひ)、中氷川、広瀬、物部天神社、国渭地祇(くにいちぎ)神社が搭載される。
928 (延長6)年
・秩父牧牧司高向利春が甲斐守となる。(日野市史通史編 1p296)
929(延長7)年
・下野国衛が藤原秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、太政官府は下野国衛と隣国五カ国に秀郷の追討官符を出す。
秀郷らが追討された形跡はない。(HP)
931(延長9)年 (承平元)年
・将門と伯父良兼の争い、良兼が娘と将門の結婚を反対⇒一族内紛
・小野牧(陽成上皇の私牧)が勅使牧となる(太政官符)毎年馬40匹を貢納
・11月、 散位・小野諸興(もろこし)が小野牧の別当となる
933 (承平3)年
・諸国国分二寺の堂塔、仏像などに大破、汚損するもの多く、官符を下し修理させる。
・秩父牧が勅使牧とされる。
・4月、藤原惟条(これつな)が秩父牧の別当になる
934 (承平4)年
・藤原子高、武蔵国司となる(国立市史 年表)
・陸奥国分寺七重塔、雷火で焼亡。
935(承平5)年
・2月、将門の乱勃発
平将門が国香及びその舅の前常陸大掾源護(さきのひたちだいじょう・ みなもとまもる)の3人の子及び叔父国香を殺害
・4月、将門が源護の本拠地を焼き討ちする
・10月21日、将門、新治郡川曲村(かわわむら・八千代町川西)で合戦、伯父良正を常陸に破る。良正軍60余人が討たれたとする。
・12月29日、源護の訴えにより将門・平真樹召喚の官符が下される。
・将門の乱
桓武天皇の流れをくみ、房総に定着した豪族・将門(私営田を経営)が、 かっての国府役人と現郡司との紛争に介入し、調停をしようとしたこと から、私兵を率いて武蔵に乗り込み、東国に新王国を建設しようとした。 国家的反乱と見なされ、平貞盛、藤原秀郷によって誅せられた。
936(承平6)年
・3月、純友蜂起
・6月26日、良正は兄の下総介・良兼の助力を得て、下総、上総で大軍を 集め将門に挑む。将門は100余騎で下野国府に敗走させた。
・国香の子=貞盛が父の敵を討つべく関東に下り、平良兼、源護とともに 将門を攻めるが大敗
・9月7日、良兼軍が下野へ向かう。
・源護が朝廷に将門の処罰を要請
・10月17日、将門弁明のため上洛
・藤原善方・藤原維幾と順次武蔵国司となる(国立市史 年表)
937 (承平7)年
・4月7日、朱雀天皇元服の大赦で、将門は帰国
・8月6日、良兼が子飼の渡に攻め寄せる。将門を破り、官牧付属の官厩 常羽御厩に放火した。
・8月17日、将門が大方郷堀越の渡しで良兼らに破れ、妻を捕られえられ る。
・8月19日、良兼が上総国へ引き上げる。
・9月19日、将門が真壁郡に兵を集め、良兼の別邸服織の宿を焼き、良兼 は筑波山に逃れる。
・9月23日、将門が筑波山に向けて出兵
・10月13日、将門が弓袋山に良兼を攻めるが、勝負がつかない。
・関東の有力豪族が将門の武威に依存、国司と対立
・11月5日、良兼・源護・貞盛・公雅・公連・秦清文(はたのきよぶみ) に対する追捕の官符が出され、関東の諸国に配られた。
これは八月の官 牧付属の官厩常羽御厩放火事件の責任追及とみられる。
召喚状ぬきの追捕令であり、承平五年の源護の告訴と比べると時間も格 段に早いが、これは私的合戦と国家施設襲撃事件とのちがいである。
しかし、当時の諸国に彼らを追捕する力があるわけではない。 (東国の兵乱p18)
・11月、甲斐国より、富士山が噴火し、水海(湖)を埋めたことを言上する。(武蔵野351p56)
富士山噴火(NHK 富士山の誕生と噴火の歴史)
・12月14日、良兼が将門の駆使(走り使い)丈部子春丸の手引で、将門の石井の館を襲撃する。
石田から石井まで約三〇キロ、一人当千の従類八十余騎による夜襲であったが、将門方に気づかれて、四十余人を討たれて逃げ帰る。 (東国の兵乱p18)
938 (承平8)年 (天慶元)年
・1月3日、丈部子春丸が殺害される
・2月29日、在地の合戦に嫌気のさした貞盛は、再び官に仕えるために東山道を上洛する。
これを知った将門は、貞盛が上洛して自分を訴えるものと疑い、百余騎の兵を率いて追う。信濃国国分寺辺で千曲川を帯して合戦するが、貞盛は山に逃れる。将門に碓氷の関を武装兵を率いて駆け抜けたという落度ができた。
・京にたどり着いた貞盛は政府に将門を訴えた。(東国の兵乱p18)
・2月、国司武蔵介源経基・権守興世王が租税徴収確保のため足立郡内に巡検を強行、土着豪族足立郡司武蔵武芝が反発
◎原因は、国司側が古くからの税の未納を取り立てようとし、郡司は武蔵ではそういう習慣がないと主張する。当時どこにでもあった紛争ではあったが、興世王と経基は武装して強引に入部し、郡司の館と周辺の民家まで封印してしまい、郡司は山に隠れる。
・興世と経基は武装して妻子とともに比企郡狭服山(狭山丘陵か)にこもったというから、役所の内外ともに評判が悪く、すっかり孤立していたことがわかる。(東国の兵乱p20)
・この争いに将門が介入
◎将門は、従類を率いて調停に乗り出す。一応成功して、権守興世王と郡司武芝が国庁で手打ちの盃を挙げようとしていたとき、遅れた介経基と武芝の後陣の者が衝突事件を起こす。
・4月25日、大地震 京中の築垣がことごとく壊れる。
・甲斐国分寺の堂塔破損。
939(天慶2)年
・2月、将門に再び召喚状が出されて、使者が下向する。しかし、将門は、 追捕令の対象である貞盛が捕らえられず、その訴訟が取り上げられたこ とに不満の意を表し、上洛を拒否する。
貞盛が召喚の官符を持って関東に下る。
・3月3日、経基は、皆が共謀して自分を討とうとしたものと疑い、京都 まで逃げのぼり、将門・興世王・武芝共謀の謀叛事件として訴え出た。
・3月25日、将門の私君太政大臣藤原忠平が将門謀反の真偽を調査させる。
◎将門は常陸・下総・下野・武蔵・上野五ヵ国の上申書を集め、謀叛は無実であることを五月五日に答申している。六月九日に経基は左衛門府に拘禁されており、訴えが誣告(故意に事実を曲げた訴え)であるという見方が、政府内部にも広がっていたことがわかる。(東国の兵乱p20)
◎川尻秋生は告訴が取り上げられると同時に告人も拘禁されたとの見解をとる。(平将門の乱 p87)
・5月15日、上総介・百済王貞連(くだらのこにしき さだつら)を武蔵守に任命し、坂東諸国に部内粛正を命じた。
◎百済王貞連は興世王を国庁に着座させなかった。不和となり、興世王は将門に身を寄せる。(平将門の乱 p83)
・6月16日、武蔵権介小野諸興・上野権介藤条朝臣(藤原惟条・これつな) ・相模権介橘是茂(これもち・最茂か)を押領使に任命して群盗追捕を命ずる。(6月9日押領使、6月21日追捕使 平将門の乱p84)
・6月7日、問武蔵国密告使(推問使 すいもんし)として嵯峨源氏の俊(すぐる)が選ばれた。
・11月、伊豆で将門の弟将武にも追捕の官符が出されている。武蔵の事件 を契機に、関東の群盗事件が新しい飛躍の時期を迎えたのである。
・興世王は下総の将門を頼って食客となる。
・11月21日、将門と藤原玄明が常陸国府を攻略、印鎰を奪う。平将門の乱始まる。(武蔵野 351p56)
・12月11日、将門、下野国府を占領し、
・12月15日、将門上野国府を占領。除目を行い、武蔵・相模を巡検して国印を奪う
・平将門、新皇を称し、平将文を相模守に任命する。
◎将門の念頭にあったのは坂東の自立。(東国の兵乱p23)
・12月17日、純友が再度動く
・百済王貞運、武蔵国司となる(国立市史 年表)
・武蔵国分寺の修造が行われる。規模などは不明。(ふるさと国分寺のあゆ みp94)
・諸国国分二寺の堂塔・仏像などに大破、汚損するもの多く、官符を下し修理させる。
940 (天慶3)年
・1月中旬、将門が武蔵、相模などを制圧して帰郷、再度常陸に出兵
・2月14日、将門の乱鎮圧、平貞盛、藤原秀郷(ひでさと)
・3月25日、上総介藤原滋茂(しげもち)が「印鎰」(いんやく=鍵)を 奪われたことにより官職を追放される。(平将門の乱 p96)
・4月15日、将門の首が京都で獄門にかけられる。
・この頃、源経基、武蔵国司として活動平貞盛・藤原秀郷、平将する15門 を滅ぼす
・藤原秀郷、武蔵国司となる
・駿河国分寺、凶党のため雑物を奪われる。
941 (天慶4)年
・6月、純友の乱終息
・9月、警固使・太宰府権少弐(だざいふごんのしょうに)である経基が 豊後国海部郡佐伯院(大分県佐伯市)の合戦で、桑原生行(くわばらの なりゆき)を捕らえる。(源氏と坂東武士p12)
942 (天慶4)年
・平公雅、武蔵国司となる(国立市史 年表)
949 (天暦3)年
・源満仲、武蔵国司となる(国立市史 年表)
960(天徳4)年
・7月17日、平良文村岡五郎、武蔵大掾、正六位上卒す、67歳。(金子家系図)
968(安和元)年
・相模権介藤原千晴、武蔵権介平義盛に乱暴され勘問される。
975(天延3)年
・7月29日、東国に大風あり、多くの民家が損害を受ける。(武蔵野 351p56)
978(天暦2)年
・伯誓国分二寺炎上。
986(寛和2)年
・平繁盛が解状(上申書)を太政官に提出
坂東の大乱(将門の乱のこと)のとき、繁盛も貞盛や秀郷とともに苦労して乱を鎮めたのに、恩賞に漏れました。その恨みを忘れ、一切経を書写し、比叡山に奉納しようとしました。ところが陸奥介平忠頼、忠光らが 武蔵に移り住み、伴類を率いて妨害しようとしています。
路次の国々に途中の危険を除き、一切経の運上が実現できるよう、官符を出していただきたいものです。
忠頼・忠光=良文の子供 忠頼の子供が忠常
繁盛の子=維基
平忠常の乱の前哨戦(東国の兵乱p59)
996(長徳2)年
・この頃、藤原寧親、武蔵国司として活動する(国立市史 年表)
<長徳2>1月25日~999年<長保元>10月19日従五位下
997(長徳3)年
・山口氏の祖である平頼任は桓武平氏の流れをくみ、武蔵国司としての任が終わると、武蔵国村山の地に土着したという(4次山口城調査報告書)
998(長徳4)年
・この頃、源満正、武蔵国司として活動する(国立市史 年表)
999 (長保元)年
・3月7日、駿河国より富士山の噴火を言上してきたので、朝廷でト占を行う。(武蔵野351p56)
富士山噴火(NHK 富士山の誕生と噴火の歴史)