9【赤っ風】

9【赤っ風】

「赤っ風になっちゃうかな」
春先き強い西風が吹いてくると、村の人は気がかりでした。
大正の頃、桑や茶畑が続いていたこの辺は土が一寸も積り、草履(ぞうり)のまま上る始末で、
「神棚にごぼうの種がまける」
といわれるほど土ぼこりのひどい所でした。ローム層の砂土は軽く、少し風が吹いても舞い上がります。人々はこの土地を
「吹っ飛び田地」(でんじ)と呼んでおりました。
とくに、春先の風には悩まされたものです。空気が乾いている時期ですから、強い季節風が吹いてくると土埃で空がまっ赤になり、それはたまりません。あたりは何も見えなくなってしまいました。この風を「赤っ風」というのです。

赤っ風が吹く時、つむじ風も起りました。畑でつむじ風に出合うこともありますが、その時は地面にかじりつくようにして、風が過ぎるのを待つのです。
ところで、この赤っ風を心待ちにしている人たちがいました。畳二畳分の大凧を上げようというのです。待望の赤っ風が吹いてくると、凧を原に運び、大人三人がかりで上げます。藤つるを張った凧は風の中でよく捻り、見物人も集ってきて、お互い埃の中で凧上げを楽しみました。
また風の吹いたあとの畑で、矢の根石(石のやじり)がよく見つかりました。時代の違う珍らしい石がたくさん集められたものです。
静かだった村は町になり、家が建ち畑が少なくなってきました。しかし、春一番の吹く頃はやはり土埃がひどく、一面まっ黄色になります。
(p57~58)


「赤っ風」(東大和市モニュメント)

西武拝島線玉川上水駅を北口に降りてすぐ左を見ると、交番と階段の間に、東大和市のモニュメント「赤っ風」があります。場所が奥まって、あまり関心が寄せられていないようですが、東大和市の在りし日を伝えて、大好きです。


像の横に市の説明板があって

『 「赤っ風になっちゃうかな」春先強い季節風が吹いてくると、村の人は気がかりでした。
大正の頃、桑畑や、茶畑が続いていた東大和市では、春先の強い季節風が吹いてくると土ぼこりで空が真っ赤になり、あたりはなにもみえなくなるほどでした。
この強い風が吹いてくると農家の家の中は土が一寸(三センチメートル)も積もるほど、土ぼこりのひどい所でした。この風を「赤っ風」といいました。
赤っ風が吹く頃つむじ風も起こりました。畑でつむじ風に出会うと、地面にかじりつくようにして、つむじ風が通り過ぎるのを待ったそうです。
ところが、この赤っ風を心待ちにしている人たちがいました。待望の赤っ風が吹いてくると、畳二畳分の大凧を原に運び、大人が三人ががりで上げたそうです。
また、赤っ風の吹いた後の畑で石のやじりがよく見つかりました。
静かだった村が町になり、家が建ち、畑がなくなった現在でも、春一番の吹く頃は、やはり土ぼこりが舞い上がります。
                   ―東大和のよもやまばなしから―
この作品は赤っ風をイメージし東大和市美術工芸品設置事業の一環として制作したものです。
                            平成四年度制作
                      飯塚八郎作 東京都ふれあい振興事業』

と記されています。江戸時代、玉川上水、野火止用水がつくられた頃(1653~1655)です。狭山丘陵の麓に住む村人達はケンメイに南に広がる武蔵野の原野を掘り返し、用水の縁まで一面の畑にしました。水田はなくて、全て畑ですが、一般的に新田開発と呼ばれます。
台地の土は関東ロームですので、風に吹かれて赤く舞い上がりました。「神棚でゴボウがつくれる」と少し大げさに伝えられる位で、今のように家が建ち並ばない昭和20年代には、まだこの現象に見舞われました。

江戸時代を通じて生産性は低く「下下畑」に位置づけられていました。落ち葉や原の草で作った堆肥では作物が育たないので、厳しい収入の中、やり繰り算段して糠(ぬか)や干鰯(ほしか)など、お金のかかる肥料を使わなくてはなりませんでした。その苦労が偲ばれます。
今ではすっかり宅地化が進み、モノレールも走って、そのかげに身を潜めるようにモニュメントは立っています。愛想もなく、ぶっきらぼうですが、この姿、愛おしくて仕方がありません。