p275

p275
草創開基以来の歴史は詳らかでない。しかし八〇段という
高い階段を登ったところにあった鐘楼には、一五〇~二〇
〇年の由来のある、重量二ご○貫(約四九〇キログラム)
という鐘がつるしてあったというから、堂々たる風格の寺
であった。
天正一九(一五九一)年に家康から朱印を受けた時の壇
家一五〇戸と記されているから、その当時より湖底の村の
人々の大部分は、三光院の壇徒であったのだろう。

内堀(阿弥陀)堂

 狭山五一番地の、共同墓地の隣りにあった無住の堂で、村民共有物であった。一
〇畳と六畳の二部屋からなり、正面に阿弥陀如来が安置さ
れていた。屋根は茅葺であった。

 堂は葬儀の時、その他寄り合いの席ともなった。春・秋
の彼岸には念仏講がおこなわれ、四月八日の「花まつり」

には念仏講中の人が集まり甘茶で灌仏(かんぶつ)をしたり、お参りに
訪れた子供達や大人に甘茶を御馳走した。
村に疫病が流行ると、村中に触れを出して集まり、堂の
前で大きな数珠を繰り廻して念仏をやり、病気の退散を願
った。
堂ではまた、若い衆が集まって「かねはり」の練習をお
こなった。「声の良い者は、山口観音のお十夜に出かけて
いき、そこでおこなわれるかねはりを競った」(内堀専
司)。
移転に際して奈良橋の庚申墓地に移されたが、いまは跡
形もない。ちなみに庚申墓地の門柱は「内堀部落の消防小
屋の近くの、田用水にかかっていた橋をもってきて利用し
たものである」(内堀小十郎)。
西楽庵地蔵堂というのが正式の名称である(図
カサ堂
皿127)。狭山七〇八番地、西楽寺池の西側に
あって、杉本想太郎他二名持の堂で、境内に杉本・林両
部落の墓地があった。
『狭山の栞』によると、「三光院の末寺であった西楽寺
地蔵院を、本尊と脇士の不動尊と共に、渋谷区幡ケ谷の荘
厳寺へ移し、廃寺となった跡へ一宇を建立して、西楽庵地
蔵堂と呼ぶ」とある。
移転前のカサ堂は麦わら葺で、広さは八坪(約二七平方
げや
メートル)強、それに下屋が三坪ほどあった。三問(約五
・四メートル)×二間半(約四・五メートル)、南向きの
建物であった。
宮鍋孝吉という人が堂守りをやり、杉本、林両部落の子
供達に漢文などを教えていた。かたわら子供相手に「鯛焼
き」を売っていた。

p294

も頑固に居すわりをつづけ、その結果として島と化したも
のといわれていた。しかしこの土地が島になった理由につ
いては、この附近が堤防工事の赤土を取った所にあたり、
水が入ってから立ちのいたというのは、事実に反するよう
である。
なぜおそくまで抵抗したかという理由について、さまざ
まな話を総合すると、もっとも大きな理由は買収価格の低
いことにあったことは事実であるが、その他、子孫への伝
えによると、日清・日露戦争で働き手をとられ苦労した時
期もあり、「お上」をこころよく思っていなかったという
ことも、理由の一つになっていたようであった。

移転した人々

住民の多くが、大和・村山・小平など、
近くの村に移ったなかで・千葉の瀞.讐
栃木の那須高原に移転した人々もあった。
この人々は他の村人と別れて、新天地での農業に夢を託
して移っていったものであるが、一寒村から開拓地へ、決
意のいったことであろう。この勇気はたたえられるべきで
ある。

神社・寺・墓地の移転

 住みなれた地を去るに当って、住民は五〇○年の歴史をもつこの地に残る、神社・寺・堂・庚申塔・馬頭観音に至るまで、すべてのものを適当な地に移したのである。墓地は共同して土地をもとあ、各戸は祖先の遣骨を掘り、墓石を移し、堂を移し、祭り、行事も変りなくつづけられたのである。(p294)

三光院の問題

 三光院の移転にともなって出された保障

金を、関係者はそのうちの半分を農工貯
蓄銀行に預金をしたところ、この銀行が破産し回収ができ
なかったという話も語り伝えられている。
ところが、この他に農工銀行という特殊銀行があり、し
かも両銀行の頭取を同一人物が兼ねており、この特殊銀行
とまちがえて貯金をしたといわれ、合法的にしくまれたサ
ギにあったものと思われる。
移転する人々は、保障金で土地や家をもと
新しい土地
め、地域的にもまとまって移転を開始し
での生活
た。移転場という新しい言葉も生れたが、
多くが同じ村内に移ったこともあり、一部水道工事に採用
された人達を除いて、多くが農業をつづけ、急速に地域と
同化していったいのである。
移転の犠牲に対するみかえりに、大和村
大和村に水道
に貯水池の水を利用して水道を引こうと
と水力発電を
する計画も出されたが、実施されぬまま
に終ったようである。
また、工事のはじまる頃、村民の有志で貯水池の水を利
用し、水力発電を行ない、大織物工場を作ろうという計画
がなされ、呼びかけのビラが配布されている。
以上のように移転に関する諸々の事実は住民にとって決
して楽なものではなかったことをうかがわせている。しか
し国や東京市の、住民に対する態度はかなり強圧的で、ま
た冷酷であった。
今日、東京の住民の生活に不可欠な水資源を供給する村
山貯水池も、湖底に水没した村々の人々の犠牲の上に成り
立っていることを忘れてはならない。