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墓石に「千葉先生」と刻んだ鎌田喜十郎

 最後に千葉卓三郎との関係でもう一人
の人物に触れておきたい。鎌田喜三郎の
二男で、前述の喜三(訥郎)の弟の鎌田
喜十郎のことである。慶応元年(一八六
五)生れの喜十郎は、残された戸籍(鎌
田家文書)によると明治十八年(一八八
五)八月二十九日付で、北多摩郡砂川村
の宮崎伝七家と養子縁組している。翌八
十六年に父喜十郎は「徴兵令違犯」とい
うことで罰金(二円五十銭)をとられて
いることから、おそらく喜十郎が二十歳
を迎える時に、養子に出すという徴兵の
がれの工作をしたのであろう。結局、喜
十郎はそのまま徴兵されなかったようで
あるが、実はそのころ病魔がおそってお
り、それから僅か四年後の明治二十二年、
二十五歳の若さで死去している。

 兄・喜三の影響を強く受けて育ってき
たが、五日市から来た千葉の影響もまた
心身ともに大きいものがあった。千葉は
明治十六年(一八八三)十一月、持病の
肺結核のため、三十一歳という若さで亡
くなっているが、その病床で最後を見届
けたのが鎌田喜十郎である。そのころ、
「湯島ノ法律学舎ニ寄宿」していた鎌田
は、奈良橋の家にいたころに知己を得た
千葉が、東京大学付属病院に入院してい
ることを知り、頻繁に見舞に訪れていた。
千葉が残した手紙類をめぐって、「氏ノ
病気中聊か(いささか)手配ナシタル礼状ニテ、氏ノ
門人鎌田喜十郎ト申ス者モ親近セラレタ
ル人物二書カシメタルモノト考へ候」
(仙台市・千葉胤雄家文書)という記録が
ある。

 つまり、千葉と喜十郎は師弟関係にあ
り、容体が悪くなった千葉が、枕辺にい
る門人の喜十郎に口述筆記させた手紙が
あるということである。二人の親密な関
係を示す史料は他には見当らないので、
詳細はわからないが、唯一つ決定的な証
拠が残されていた。というのは、明治二
十二年(一八八九)四月に天折した喜十
郎は遺言を残していた。自分が死んだら、
自分の墓(奈良橋鎌田家)には「千葉先
生」と刻んでくれというものである。そ
もそも千葉と同じ結核が死因であること
を加味すると、看護のために身近にいた
喜十郎が菌をもらっても不思議ではない。
それだけ親身な看護を続けたことがわか
る。何か因縁めいた話である。鎌田家の
墓域には現在でも、遺言通り「千葉先
生」と刻印された墓が残されている。そ
れだけ敬愛された千葉はそのことを知ら
ないが、千葉が明治前期の多摩地域に刻
んだ軌跡は太く、そのおとした影も長く
大きいものがある。