『五十嵐氏考』
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うな「場所」や、「位置関係」を示す呼称は、現在
でも家の呼び名として使われている例が多い。た
とえば五十嵐一族では大西、新屋敷、屋敷、お熊
野坂、向い、向いの前、よし原など、皆そうであ
ろう。次に水帳の中からいくつか拾い出してみよ
う。金山、西楽寺、石塔前、山王下、こうじん前、
峯の前、峯くぼ東谷、池下、池上、はけ下、神明
前、右京、川ばた、まとば、くづ上、塚場、宮の
前、中橋、門前、さかい前、山口境、どうぜうく
ぼ、つつみ下、曽根くぼ等々、数えきれない。
新田水帳なとに畑の反別とともに書かれている
人々の名前を見ていると、苫労しながら荒地を開
打した昔の人の汗の香がにおってくるような気が
する。延宝二年八月、中川八郎左衛門、近山五左衛門、今井九右衛門の検地による新田水
帳には、三光院や成就院の名とともに、東学院、三学院、金剛院、左京等の耳なれない名
前が出ているが、文化文政年間の水帳にはこれらの名前は見当たらない。あいにく当時の
人別帳もない今、それについて詳しく調べる手だてもないのだが、宝暦六年(一七五六)に
書写した寛文延宝の新田検地水帳には、細かい書き込みがあって、それによると、三学院
は延達院先組、金剛院は持宝院先租、左京は武左衛門先祖と細字で書かれている。元禄三
年の新田水帳には延達院が出てくるので、あるいはこの頃、改名がなされたのではないか
とも考えられる。
村の惣鎮守氷川明神社は、もと宅部にあったが、周知の通り今は清水神社に合祠されて
いる。当家に残されている天明六年(一、七八六)八月の絵図面によると、山の中腹に北向き
に鎮座していたようだ。道路、田畑、悪水堀などを泥絵具で着色したこの図を見ると、江
戸時代の氷川社の広さや延達院の位置などがわかって興味深い。絵図面には次のような文
書が付いており、これは当家二十七代兵右衛門汎充(ひろみつ)が書いたものと思われる。
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御朱印 高五石
右武州多摩郡清水村鎮守氷川大明神別当守持
之御朱印社地並びに別当境内内社地免田畑山林等今般
御糺ニ付村役人立合不残相改候処前書絵図面間
数之通り少しも相違無御座候依而連印仕差上申す
候 以上
武州多摩郡清水村
氷川大明神別当
延 達 院
天明六年午八月
浅井小右衛門知行所
郷士名主兼
五十嵐清左衛門
組頭 利兵衛
七郎左衛門
ところで民間信仰の対象として、庚申や馬頭観音は村人の生活と切り離せないものだが、
嘉永元年(一八四八)五月に清水村の若者たちが、持宝院の庚申尊に額堂寄進の願主となっ
て寄付を呼びかけた記録が残っている。「それ仏神を心信するに二種の因縁門あり、第一
を福徳と言い第二を定恵と号す、うんぬん」で始まる願文は別当持宝院心城の手になるも
のと思われるが、若者たちで二朱を集め、以下清水、後ヶ谷、廻り田、宅部各村の者が喜
捨している。
庚申の話のついでに書いておくが、現在二基の庚申塔が祀られている清水八六九番地の
三角地帯に、樹齢八百年をゆうにこえると思われる大けやきがあったのを、おぼえている
人も少なくないだろう。あれだけの巨樹は府中明神のものを除いて多摩地区でも他に余り
類を見ないと思われるが、終戦後まもなく切り倒されたようだ。その大木の下に車井戸が
あったが、直夏の日ざかり、その冷たい水が清戸街道を行く人々ののどをうるおしたこと
だろう。この井戸は清水村の組頭弥五右衛門が堀ったものだといわれるが、往昔の村人の
やさしい思いやりの心がしのばれてゆかしい。