『大和町史』
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第一村虫口同等小学校と第二村山高等小学校を設置した。しかし、その後の高等小学校教育は、順調に発展したとはいい得
ない。大正九年の大和村村会議事録には、大正八年度の状況を、
高等科児童ノ如キ年々幾分増加ノ傾向アリト難モ未タ戸数ノ一割二達セザルガ如キハ是又遣憾ナリトス
と伝えている。
高等科生徒数が戸数の一割にも達しないという事は、大正八年の総戸数が七七〇戸であるからその一割としても六〇名
から七〇名ぐらいの生徒であったと思われる。
大正十年の村会議事録によれば、大正九年に始めて生徒数が全村戸数の一割に達したという。
ところで、ようやく戸数の一割に達したという高等科生を送り出した村民は、村の中のどんな人達だったろうか。明治
後半期に子弟を高等科に出し得たのは、村の富裕な人々であった。大正期に入ってもこの状態はあまり変りがない。しか
し、高等科出の人物は、それぞれ、村の中堅となって活躍した。大和村におけゑ局等科の発展は、村の中堅たる人物を育
成すると共に、国家の要請にこたえたのであった。
Ⅱ補習学校
日清戦争、日露戦争を経た教育界は、強兵の基礎となる壮丁の学力向上とともに、新しい産業に応じた知識と技術を持
つ労働者が求められて来た。実業補習学校は、この後者の要求から生み出されたものであった。
こうした国家的要求に応じて、大和村では冬期、夜間の実業補習学校が設けられたのである。しかし大正年代には、そ
の育成も試みられたのであるが、見るべき成績も挙げ得なかった。
大正六年以来、内容の改善を図り、授業料も全廃したが、大正九年度に至っても「他町村二比シ遜色アルヲ免レス」と
いわれるありさまであった。さらに大正十年には、内容を、この地方の実情に応じて農業補習学校としたが、それでも活発ではなかった。大正十三年に至って新校舎を建て、ようやく生徒数の増加を見るに至った程度である。
Ⅲ社会教育
日清・日露の戦争をへて日本資本主義は帝国主義段階に入った。資本の独占化は進んだ。この様な状勢の中に教育政策
は一そう国家主義的な傾向を強めた。それと共に、一方では、資本家階級の要求による実業教育の振興が進められた。そ
れは軍事的にも産業上にも、青少年を近代的に教育し訓練することを要求する日本資本主義の発展のコースであった。し
かし実際には、財政的な裏づけがなかったために十分に成果を上げ得なかった。特に、農村では就学率はふるわず、多数
の未就学の青少年がそのまま放置されている現状であった。
義務教育終了者を、そのまま社会に出すことは、多くの青年達を学校教育を通じての思想的な国家統制からもらせてしまう結果となる。社会主義運動や反戦運動が政府を悩ましている時にあたって、この様な青少年を、もう一度国家の統制下におく必要が生じて来たわけである。こうした要求から、政府は、明治末年ごろから学校教育以外の社会教育の重要さに注目し始めた。
明治四十四年五月、政府は通俗教育調査委員会を制定し、社会教育の実行にとりかかった。当初は、図書館文庫の施設を設け、展覧会、幻燈会、映画会、講演会を、開催することが、主要な内容であった。
大正に入ると社会教育は、だいぶ拡大され、大正二年には、小学校の校舎や校庭を教育、兵事、産業、衛生、慈善などのために使用することを許可するようになった。このように政府は一定の制限をつけながらも社会教育を発展させようと
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したわけである。
又一方では青年の団体を強力なものに育成することが計画された。各村々にあった青年の集団を、青年団として発展さ
せようとし、明治四十年代には青年団の中央機関をつくる計画が具体化した。大正四年には、内務大臣と文部大臣との訓
令によって青年団の統制化がなされた。両大臣の訓令によれば「忠孝の本義を体し品性の向上を図り体力を増進し、実際
生活に適切なる知能を研ぎ剛健勤勉克く国家の進運を扶持するの精神と素質とを養成する」のが目的とされた。青年団
は、青年の修養機関であることが明らかにされたのである。更に内務、文部次官の指示は、青年団の組織、運営の標準を
示し、組織を全国的に統一することが計画された。
大正七年には又内務大臣、文部大臣による二回目の訓令が出された。青年団は、このように、上から組織された青年の集団であり、会長には村の有力者がなっている場合が多い。
大和村の青年団は、大正八年の合村で各村々にあった青年会が統一されて成立した。これまで各字ごとにあった六団体は支部となったのである。
青年会
大和村青年会ハ合村成立ト共ニ六団体ヲ統一シテ一団トナセシモノニシテ客年ハ恰モ創立初年二相当セルヲ以テ盛大ナル開会式ヲ挙行セリ同会ノ組織ハ年令十五歳ヨリ三十歳二至ル男子ヲ会員トシ各大字二支部ヲ置キ修養訓練等常時必要ノ事項ハ支部毎二之力実行ヲ図レリ同会会員ハ克ク規律ヲ重ンジ団結一致事二処スルガ如キ其進退ノ状況誠二掬スベキモノアリ客年本村執行ノ祝賀会ノ際二於ケル同会ノ努力ノ如キハ大二賞揚スベキモノトス
(大正十年村会議事録)
大和村青年会は合村成立と共に六団体を統一して一団となせしものにして客年は恰も創立初年に相当せるを以て盛大なる開会式を挙行せり同会の組織は年令十五歳より三十歳に至る男子を会員とし各大字に支部を置き修養訓練等常時必要の事項は支部毎に之が実行を図れり 同会会員は克く規律を重んじ団結一致事に処するが如き其進退の状況誠に掬すべきものあり 客年本村執行の祝賀会の際に於ける同会の努力の如きは大に賞揚すべきものとす (大正十年村会議事録)
こうして、この時期における青年団の再編成は、従来、村の中に自然発生的に成長し自主的な、自由な運営を続けて来た青年団体を、国家の統制下に置き、学校教育では果し得ない面を担当させ国家主義的教育を押し進める役割を果したのである。このような国家の対青年対策は、青年訓練所の設置で、より強化された。大和村では、大正十五年に青年訓練所を設置した。
大正末期に設置された青年訓練所はその後、昭和期に入ると一そう発展し、後の青年学校に吸収され軍国主義教育の一端をになうに至るのである。なお、一般教育としては大正八年に教育会が設立された。
教育会
大和村教育会ハ本村教育ノ補助機関トシテ頗ル有要ノ団体ナルモ如何セン歳計収入少額ニシテ隔年毎ニアラザレバ殆ント活動シ能ハサルガ如キハ遣憾ナリ 大正十年中同会事業ノ概要、同会会員数
一、学校同窓会ト提携シ通俗講演会ヲ開催セシモノ一回
一、青年会、在郷軍人会、小学校ト提携シ運動会ヲ開催セシモノ一回
一、教育研究会ヲ開会セシモノニ回
会員数
特別会員 通常会員
芋窪四五人 六〇人
蔵敷一七人 二九人
奈良橋三七人 四五人
高木三〇人 三〇人
狭山四一人 五三人
清水二三人 六八人
計一九三人 二八五人
(大正年村会議事録)
このようにこの時期の社会教育は、青年層をはじめとして、広く国民大衆を対象とし、学校教育では果し得ない面を担
当して、国家主義的な教育をおし進めたが、それは、明治後半期以降の小学校令改正に見る基本線に沿って進み、大正十
二年十一月の「国民精神作興二関スル詔書」に帰結した。
Ⅳ 小学校制度と村の財政
高等科の設置をはじめとする明治後半期以来の諸教育制度は、国家の強い要求で出発したものであるが、それは村の財
政を、ひどく圧迫するようになった。
第96表は大正四年から、大正十三年までの財政支出の表であるが、各年度とも教育費が、きわめて高い地位を占めてい
る。
こうした教育費を主とする支出増に対し大和村では、明治末年以来、借入金によって、財政の不足を補った。借入金を
返済する財源には、その年の村税なり、過去の末納村税をあてた。
しかし、もともと不足勝ちの財政の中での借入れであるから、その返済は困難であった。明治四十二年に多摩銀行から
借りた八〇〇円は、大正二年まで支払を延期しなければならなかったし、大正二年の返済期には、再び新たな借入れをし
なけれぽならなかった。
このような銀行借入れが連続することのなかに、この時期における地方財政の窮迫状態と、地方自治体の地位を説明す
るものがあると思う。大正七年の大和村村会議事録は、
税外収入及諸収入p454
国民精神総動員
p474
ていくために、国民の足なみを一致させようとして計画されたのである。ここに国民は、
をスローガソとして、戦争への道を歩まされはじめたのである。
この年大和村は国民精神総動員実行運動実施事項として次のことをおこなった。
国民精神総動員実行運動実施事項
一、実行委員会開催、十月十三日
二、皇軍武運長久国威宣揚祈願祭十月十八日
三、実行委員会開催十}月「日
四、勤労奉仕班ノ設置
五、出動将兵二感謝状発送
六、部落旧懇談ムムノ開催-丁一月〃八日ヨリ各部落毎二
七、戦捷祈願デー
八、落葉蒐集デー十二月四日
九、堆肥増産デー十二月五日
十、消曲質緬即約一ア;十一一月六日
十一、勤労倍加デー十二月七日
十二、廃物蒐集デー十二月八日
十三、貯金デー十二月九日
十四、納税懇談会、講演会、映画会ノ瀾催
十二月+u
挙国一致、尽忠報国、堅忍持久
(沼和十三年度事務報告)
昭和十四年になるとこの実施事項に「興亜奉公日ノ実施」と云う項目が加って、節約と貯蓄が強制される。節約と貯蓄
を奨励することによって国民を戦争協力へかりたてたのである。この運動は後に大政翼賛会が成立すると、その指導によ
って一そう推し進められた。
学校教育では、極端な国家主義教育が基本となり、軍事教育がとり入れられた。昭和十四年に青年学校が義務制となっ
たが、その趣旨は、
一、国体の本義にもとずぎ、青年の心身を銀練する必要があること。
一、産業の振興、地方の開発に寄与させる必要があること。
一、国防の根底をつくり上げる必要があること。
であった。
大和村では大正十五年に設置された青年訓練所と、従来からあった実業補習学校の両者を廃止してそれの統合の上で昭
和十年六月三十日に青年学校が設置された。青年学校は、学校と名ずけられてはいるが、それは軍隊の予備教育が中心で
あった。
青年学校の義務制実施により、大工場も私立の青年学校を設立した。日立航空機青年学校は大和村唯一の私立青年学校
であるが、これは工場付属の青年学校であり、むしろ技能養成が主であった。
昭和十六年四月一日から小学校が長い間使っていたその名前を廃止して、国民学校と改称した。それは単に名前を改め
ただけではなく、教育内容も戦時体制に応ずる全体主義的な教育制度に変えられたのであった。
国民学校、青年学校などの学校教育を通じて国家主義的な教育が行われたが、これとともに社会教育にも種々の教化団
体を通じて一般大衆に戦時体制に適合する教育が吹きこまれた。p475
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匡民の総力を戦争に投入していこうとする政府は、青年を動員しその推進力としようとしたのである。男女青年団は、こ
うした仕事がますます増えていった。当時大和村の青年団は男子三一九名、女子一五二名であったが、男子青年団の事業は
修養部 ラジオ、雑誌「青年」により自己の修養、時局の認識を深める。
産業部 甘藷苗床審査を五月中旬、製茶講習を中下旬、甘藷増収品評会を十月下旬、物産品評会十一月下旬四日間に亘り
て開催、搬入、審査継覧褒賞授与式、搬出、製炭講習併て実習、野鼠駆除は麦奴予防等をなす。
体育部 八月中ラジオ体操参加 武運長久祈願を兼ね耐熱自転車行軍をなす、十月中陸上競技会、一月中青年学校授業終了
後約二時間有志の武道練習会をなす。二月中武運長久祈願を兼ね耐寒自転車行軍をなす。
社会部 指道標建換、危険物投入箱設置、五月中旬三日間警察当局と連絡をとり交通整理をなす、衛生上の施設として蝿
取デーを設けて捕蝿を励行す。
で、このほか銃後活動として、
1出征軍人に対して、
イ、神社々前に於ける武運祈願祭。
ロ、守札、饅別金の贈呈。
ハ、壮途見送り、千社詣。
2出征軍人家族に対しては家事の手伝をなす。
3戦死者並に遺族に対しては、
イ、遺骨出迎葬儀参列、弔詞、香奠を贈る。
ロ、墓参及墓地の清掃。
ハ、家事の手伝。
4傷病兵に対しては、
イ、慰問品、慰問状の発送。
ロ、病院慰問。
を行なった。女子青年団は、
一、修養方面。
1、神社参拝並に境内の清掃。
毎月一日十五日の早朝各支部内の神社に参拝し皇大神宮宮城遙拝を行いたる後境内の清掃を行う。
2、修養会の開催。
農繁期を除き毎月一回位、国家的行事の日又は物日等を利用して行い講師には府青年指導員若くは学校職員を依頼す。
3、支部読書会。
農閑期を利用し夜間支部単位の読書会を開催す。
4、講演会の開催。
本団の総会等の機会を利用し名士を聘し年一二回行い、其他村主催の各種講演会には全団員をして聴講せしむ。
5、見学旅行。
年一回秋季行う。平素冗費を節約貯蓄せしめ置き、横須賀、鎌倉、江ノ島、多摩御陵、高尾山、日光等の名勝旧蹟を見
学せしむ。
二、生活改善及産業方面。
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1、桑園害虫駆除、四五月頃桑園に発生する野蚕尺蠖(しゃくかく しゃくとり)等の補獲駆除を行う。
2、積立貯金の励行、毎月二十五日を貯金日とし各支部の基本金の積立を行う。
3、農家簿記講習会の開催、家計簿記入方法等の指導を行う。
4、生活改善座談会の年二回支部単位。
各支部に於て家庭生活に於ける改善を要する事項につき意見を述べしめ其の改善策を講ぜしむ。
5、漬物、料理、染物、手芸等の講習会開催年一回。
三、社会方面。
1出征軍人家族慰問及家事の手伝。
団員手製の鮓(すし)等持参の上出征軍人の家族を訪問し、裁縫、洗濯等の人手を要する家庭の手伝を行い、尚本団より
「出征軍人の家」「忠勇義烈」なる門標を贈れり。
2、戦病残老の遺骨出迎、葬儀参列。
3、戦病残者の墓参並に墓地の清掃、春秋彼岸。
4、敬老会の年一回。
運動会、節句等の機会を利用して村内八十歳以上の高齢者を招待し敬老会を催す。別に支部単位にて七十歳以上の
高齢者を招待敬老会を催す、此の際神社の賽米を利用して鮓等を作り贈る。
5、青年学校生徒の出席督励及び援助。
等の活動を行なった。男女青年団のほかに、壮年、婦人を中心とした教化団体も作られ、社会教育の諸機関は戦争続行
に、欠くことのできない教育機関として活動した。
第二節太平洋戦争と村
1
国家総動員
日中戦争は、アメリカ、イギリスとの戦争を避けることのできない方向に進めた。国民を戦争へ引き込むのに、もう精
神運動だけでは十分でなくなった。昭和十三年三月、国家総動員法が成立した。この法律は国力の一切を、挙げて戦力に
投入しようとする目的で制定されたのであるが、この法律によって、国民の生活を左右するような重要なことがらを、議
会に相談することなく、政府の一存できめることができた。
ここに政府は、労務・資金・賃金・物価・消費を徴用・統制・制限・禁止する権限を持つことがでぎ、この法律にもと
ずいて、賃金統制令、国民徴用令、価格等統制令が次々に制定された。
こうして、次の大戦争は用意された。
なお政策の徹底のために、部落会、隣組が組織された。
昭和十五年内務省は、「町会、部落会及隣組整備運営」に関する訓令を出し部落会及び隣組を市町村の行政補助機関と
して整備することにした。
大和村は、「昭和十五年十月十五日東京府訓令第二七号町会、部落会及隣組整備運営二関スル趣旨二基キ同年十二月改
組以降之ガ整備強化ヲ図リ村常会ヲシテ大政翼賛会大和村支部ノ協力会議二充テ村常会ノ協議事項ハ総テ之ヲ部落会ヨ