『武蔵村山市史』下

『武蔵村山市史』下
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 この過程については、内野の覚書によって知ることができる。それによると、二
人の参加が実際に確認できるのは、一二月一二日築地寿美屋で開かれた会合からで
ある。第二回国会期成同盟大会は一一月一〇日より開かれていたから、一月ほど遅
い参加ということになるが、それには理由があった。一二月五日に、府中高安寺で
の武蔵六郡懇親会と称名寺での勧業教育演説会が予定されていたのである。それま
で多摩地域では、めだった演説会活動が確認されていないことから考えると、この
二つの懇親会・演説会は多摩地域、武蔵六郡の自由民権運動の高揚と団結とを目論
んだものだったはずである。武蔵六郡懇親会には吉野泰三・石坂昌孝・本田定年・
土屋勘兵衛・佐藤貞幹ら一五〇余名が参加し、称名寺での演説会には、肥塚龍・野
村本之助が弁士として招聘され、吉野・石坂・佐藤・中村克昌ら三〇〇余名が参加
したと報じられている。内野の参加は確認できていないが、彼が武蔵六郡懇親会に
出席していないとは考えにくいし、称名寺での演説会の広告チラシが内野秀治家に
残されていることを考えれば、おそらく両方に参加していたと考えてよいだろう。

 この懇親会・演説会が成功に終わったところで、参加者たちは、弁士として招聘
した肥塚・野村の二人から中央(国会期成同盟)の動向を聞かされたはずである。
これにより、内野と吉野は個人の意志なのか、懇親会での代表者としてなのか定か
ではないが、急きょ上京することとなった。そのため、彼らが上京するのは、一二
月一〇日前後になったと考えられる。

 その一○日、河野広中らは八か条の「自由改進党盟約」を起草、翌一一日これを五か条に修正した。
内野秀治家には、覚書のほかに、罫紙一枚に書き写されたこの五か条の「自由改進党盟約」が残されている。

自由改進党盟約
第壱
我党ハ人民ノ自由権利ヲ拡張スル主義ヲ以テ相合ス、故二此主義ハ我
党ノ心紬ニシテ終始変スルコトナカルヘシ
第二
我党ハ此主義二依リテ国政上ノ改良ヲ謀リ、国家ノ康福ヲ増進スルコ
トヲ務ムヘシ
第三
我党ハ和合一致シテ利害憂楽ヲ共ニスルモノトス
第四
我党ハ我主義ヲ達スルニ便ナルカ為メ、便宜ノ地二中央部ヲ設ケ、各
地方二方部ヲ定ムヘシ
第五
我党ハ我主義ヲ達スル為メニ適宜ノ事業ヲ為スヘシ
明治十三年十二月十一日
(東大和市・内野秀治家文書)

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 この「自由改進党盟約」については、自由党準備段階のものとする説(江村栄一『自由民権革命の研究』)と自治改
進党の規則草案とする説(『東大和市史資料編10近代を生きた人びと』)とがあるが、このような自由党結成準備の
過程から考えると、前者が正しいようである。一二日にこの盟約についての会議がもたれた。この会議に出席したの
は一二人、内野と吉野のほかには、内藤魯一・後藤象二郎・林包明・森脇直樹・長崎岩二郎・松田正久・草間時福・
吉田次郎・野村本之助・植木枝盛である。そしてその後に二五人がこの盟約書に調印がなされた。しかし、そこには
吉野の名はなく、内野の名前だけが記されている。なぜ吉野の名がないのかを明らかにする史料は発見されていない
が、翌年一月五日に府中松本楼での北多摩郡懇親会が予定されていたため、一足先に帰郷していたのかもしれない。

 この明治一四年(一八八一)一月五日は、北多摩郡の自由民権運動にとって最も画期となった日といっても過言で
はない。本田定年・中村克昌・吉野泰三・中島治郎右衛門・比留間雄亮・横川規一らの呼びかけで、府中駅松本楼に
当日集まったのは約一〇〇人。その懇親会場で、彼ら発起人から「自治改進党」を組織することが提案され、その場
で盟約が起草された。さらに一五日、府中高安寺に再度懇親会がもたれ、その場で総則・社則・議則からなる自治改
進党の規則が作成された(『三多摩自由民権史料集』上巻)。内野秀治家に残る作成会議中に書かれたと思われる墨筆
の規則から、当日吉野泰三が仮議長、比留間雄亮・本田定年・中村克昌の三人が書記となって議事を進行したことな
どが確認できる。また、条文の各所に「自由改進党盟約」の影響を確認することができ、自治改進党が、自由党結成
への動きに強い影響を受けて結成された結社であることは間違いない。さらに「自由」を「自治」に改めていること
も見逃せない。つまり、自治改進党は、北多摩郡全域をまとめ、地域秩序の形成や地方自治の確立をめざす北多摩郡
の有志によって、自由党結成準備と密接な関係をもって生まれた政治結社といえよう。

 こうして決議された自治改進党の規則は、党員一四四人の名とともに小冊子に印刷された。そこからは、市域から
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増尾惣左衛門(三ツ木村)・渡辺市太郎(中藤村)・福井庫之助(岸村)・波多野彦右衛門(横田村)の四人の参加が
確認できる。各村一人ずつということから、各村総代として参加したとも考えられるが、詳細は不明である。自治改
進党が府中駅を基点に活動を進めたこともあり、この四人は党を主導する立場にはいなかったようだが、その後何度
か開かれる府中や小金井での自治改進党主催の演説会・懇親会には、市域からの参加者もいたと考えてよいだろう。

中和会の結成

 自治改進党結成の直後、青梅街道沿道村の有志によって結社設立の計画が進められた。自治改進党が北多摩郡全体を範囲としていながらも、甲州街道沿道村有志を中心に結成された結社であったの
に対し、中和会は青梅街道沿道村による結社ともいえよう。

 この中和会については、内野秀治家に所蔵される「同盟仮合議書」「発起同盟議決書」(『資料編近代・現代』一一
九・一二一)が知られていたが、最近になって「同盟仮合議書」の草案三点(『資料編近代・現代』一一六~一一八、
以下『資料編近代・現代』に合わせ(一)~(三)とする)が同家から新たに発見された。これにより、『東京横浜毎日新聞』
の雑報欄に散見される中和会に関する記事(『資料編近代・現代』一二0.一二二)を合わせると、規則制定過程か
らその後の活動まで、中和会の輪郭が明らかになったといえる。

 明治一四年二月一五日、小川弥治郎・内野杢左衛門・小鍋正義・宮鍋庄兵衛・小嶋龍叔らの呼びかけにより、小川
村(小平市)の小川寺で懇親会が開かれた。参会は六〇人で、嚶鳴社員草間時福と東京横浜毎日新聞社員竹内正志が
弁士として招聘されていた。この場で中和会が結成され、規則(「同盟仮合議書」)が編まれた。その規則の草案によ
ると、当初「責善会」という名称が候補となっていたことがわかる。この草案の作成順序は、「同盟仮合議書」に近
づいていく順に推測するしかないのだが、錯綜しており判断することは困難である。例えば、名称を見れば「責善会」
の名称が「中和会」に訂正された草案(二)が最初のものと考えられるが、演説・討論についての条文では、(一)よりも(二)
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が「同盟仮合議書」どおりの条文となっている。そのため、ここでは、この
規則制定過程でどのような議論がされたのか、を見てみよう。

 まず、会の目的であるが、「正理公道二基キ、民人ノ幸福ヲ享受」するこ
とを目的とする(一)、「人民ノ自由拡充」と権利の伸張を目的とする(二)、が検
討された後、「天賦ノ自由ヲ保護シ、人生ノ幸福ヲ増益」することとされた。
この目的にも「自由改進党盟約」の影響を色濃く見ることができる。つぎに
活動として挙げられているのが、演説討論会と公布類や雑誌・新聞などの購
読会である。(一)によると、演説討論会の開催目的は「立志ノ実力ヲ養成」す
るためとされているが、「同盟仮合議書」からはその目的が抹消されている。
会の目的を実現するための具体的活動が、演説討論会なのであれば、改めて
別に目的を示す必要はないという判断だったのだろう。公布類、雑誌・新聞
などの購読会は、まさに「新聞購読社」の活動をほぼそのまま導入した意見だが、これも結局は採用されなかった。
比較的広範囲な結社にはそぐわない活動方法だったため、そのような判断がなされたのかもしれない。そのほかに
も、人事面での議論などさまざまな意見が出された様子が、各草案の何度も繰り返された訂正の跡から読みとること
ができる。この議論の結果が「同盟仮合議書」だった。

 しかし、この中和会の活動は開始直後から難航したようである。内野杢左衛門の書簡草稿(『資料編近代・現代』
一二一の後半)によると、第二回演説会に参加するため小川村に赴いた内野は、来場者が一人だけで「歎念悲憤如何
とも致し方なき次第」と嘆き、日を改めて有志五六名を募って三月二七日に第三回中和会演説会を中藤村真福寺で開
催することに決定した。ここで始めて小川村主導から蔵敷・中藤両村主導の中和会に変化したのではないかと考えら
れる。このような経緯をたどった大きな原因の→つは、中和会が本部を置かずに、演説討論会の開催場所もそのたび
ごとに決定していくとしているように、中心となる場所が決定されていなかったことにあろう。

 三月二七日、予定どおり中藤村真福寺で第三回の懇親会が開催された。これについては、『東京横浜毎日新聞』雑
報欄に比較的詳細な記事が掲載されている(『資料編近代・現代』一二七)。ただし、この記事では、小川村の懇親会
の場で結成された中和会とは異なる結社として報道されており、このことからも中和会がこの第三回懇親会を期に建
て直しが謀られ、主導する有志者にもかなりのメンバー変更があったと考えてよいだろう。開催に尽力した人物に
は、内野佐兵衛・内藤藤左衛門・斎藤靖海・川島秀之介・比留間邦之助・関田粂七郎・石井権左衛門・渡辺竹四郎.
渡辺九一郎・児(小)島龍叔・川鍋八郎兵衛・宮鍋正兵衛・内野杢左衛門の一三人の名が挙げられている。このメンバーか
らも、市域の名望家たちが中心的役割の一端を担っていたことが理解できよう。懇親会では、来月から嚶鳴社員を招聘して演説会を開くことが決議され、同志は一二〇人に及んだとされる。こうして、中和会の活動はようやく軌道に
乗ることになる。

演説会・懇親会の開催

 中和会結成後約一年の間に、市域周辺で何度か演説会が開催されていることが確認できる。一八八
一(明治一四)年五月六日、芋久保村昇隆学校で学術演説会が開かれた(『資料編近代・現代』一二三・一二四)。主催者には、「渡辺(竹四郎もしくは九一郎か)・内野(杢左衛門か)・河鍋(八郎兵衛か)諸氏」と
ある。弁士には東京横浜毎日新聞社の竹内正志・吉岡育が招かれた。一〇〇余名の聴衆が集まった演説会は盛況に終
わり、弁士二人はその後、立川の板谷元右衛門宅を訪れ、同宅で自治改進党員らと席上演説会を行っている。
 それから四か月半たった九月二五日、今度は狭山村(東大和市)円乗院で懇親会が開かれた。発起人は宮鍋庄兵衛・
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鎌田喜三らで、東京横浜毎日新聞社の赤羽萬二郎が招聘された。また、
五日市憲法の起草者として有名な千葉卓三郎がこの時期奈良橋村(東大
和市)に滞在しており、この懇親会にも参加し、その席で演説を行った
(『東大和市史資料編10近代を生きた人びと』)。この日は雨のため道
路がひどくぬかるんでいたにもかかわらず、二〇〇人が参加したと報じ
られた(『資料編近代・現代』一二六)。

 1l月ll日には、奈良橋村奈良橋学校で村山郷一六か村有志が集ま
り懇親会が開かれた。この懇親会は規約を作り、今後も継続することが
確認されたとあるが、(『資料編近代・現代』一二七)、この規約につい
ては確認できていない。

 翌年二月一三日には西多摩郡箱根ケ崎村(瑞穂町)で懇親会が開か
れ、弁士には島田三郎・草間時福の二人が招聘された。一○○余人の参
加者が集まり、さらに夜には二〇余名で討論会が開かれた。この場で中藤村有志者の希望で翌一四日には、渡辺竹四
郎宅で懇親会が開かれ、島田・草間の二人はこの場でも席上演説を行っている。参加者は急な開催だったこともあ
り、二〇余人と少なかったが、有意義な懇親会になったようである(『資料編近代・現代』一二八)。

 五月五日には、三ツ木村高山権右衛門宅で懇親会が開かれる。弁士には、東京横浜毎日新聞社の波多野伝三郎と嚶鳴社員の田渕昇が招聘された。内野家から発見されたこの懇親会の広告チラシ(『資料編近代・現代』一二九)は、裏
に内野杢左衛門の父親が県会出席中の杢左衛門に宛てた書簡に同封されていたもので、チラシの裏には比留間邦之助
から送られてきたこと、内野家からは出席しなかったことが、墨書で記されている。しかし、この日は前日からの「暴
風激雨」のために道路がぬかるみ、また農繁期でもあったが、一〇〇人ほどが参加した。二人の弁士以外にも、比留
間邦之助・進藤周輔・渡辺竹四郎らによる討論も行われ、盛会だったようである(『資料編近代・現代』一三○)。

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 このように、市域の自由民権運動は、武蔵六郡、北多摩郡、青梅街道沿道という三重構造の地域性をもって展開し
た。そして、市域民権家たちの主体的な活動は、青梅街道沿道村有志者が結成した中和会で繰り広げられた。その基
本的な活動スタイルは、学術演説会や懇親会などの開催だった。そこでは、嚶鳴社員などの都市民権家やジャーナリ
ストを弁士として招聘し、彼らの優れた演説パフォーマンスを軸に演説・討
論を行い、さらに酒宴へと発展することで士気昂揚がはかられた。政談演説
会ではなく、学術演説会や懇親会を開催したのは、演説会を規制する集会条
例に抵触することを避けるためとも考えられなくはないが、むしろ彼らが抱
えていた課題や問題を解決するために最適の方法と考えられたからでもあろ
う。自治改進党が、地域秩序・地方自治の確立をめざす政治的要素の強い結
社だったのに対し、衆楽会・新聞購読社・中和会と続く青梅街道沿道で結成
された結社は、同じ地域秩序形成のためではあるが、地域の結束と知識の向
上とを大きな課題として位置づけた、学習に重きをおく結社だった。

 自由党結成から一年がたったころから、吉野泰三・内野杢左衛門など北多
摩郡の多くの民権家は、自由党に入党し始める。しかし、市域からは一人の
自由党入党者も確認されていない。この時期に自由党に入党する民権家の家
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からしか、市域の民権家に関する史料が発見されていないという現実もあり、その後の市域民権家の運動がどのよう
に展開しているのかは、未だ不明であり、市域の民権家が再び登場するのは、国会開設を目前に控えた明治二〇年
代、石坂昌孝を中心とする自由党主流派と吉野泰三を中心とする北多摩郡正義派との対立の時期となる。今後、この
数年間の空白期の史料発見が待たれる。

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第三節 国会開設と中藤村外三か村組合

町村制の施行

 明治二一年(一八八八)四月二五日に「市制・町村制」、二三年五月七日に「府県制」と「郡制」
が公布され、明治国家の基礎となる地方制度がととのえられた。とくに「市制・町村制」は、明治
二二年に予定された大日本帝国憲法発布を目前にして、地方制度の抜本的な改革を断行し、国家体制の強化をはかっ
たものである。その背景には、それまでの三新法体制が自由民権運動の高揚に対応できなくなり、さらに松方デフレ
による農村窮乏が地方制度そのものを動揺させる事態になっていたことが存在する。それゆえ政府は、立憲制の導入
に先き立って地方制度を再編し、明治憲法体制の基盤を強化しようとしたのであった。
「市制・町村制」は、いわゆる「自治」を原則とし、市町村の法人格を認め、「其区域内ハ自ラ独立シテ之ヲ統治
スルモノ」と記していた。一方で、その市町村は「国ノ統括」のもとで義務をつくすことが定められている。国は市
町村に対して「法律ヲ以テ其組織ヲ定メ、其範囲ヲ設ケ常二之ヲ監督ス可キモノ」とされた。政府と府県は市町村に
対して、監督権と許認可権を幅広く保持し、市町村の「自治」は、国家から委任された事務を円滑に遂行するための
必要な範囲で許されたのである。
政府はすでに明治}八年「二月、太政官制を廃して内閣制度を創設し、憲法作成を進めていた伊藤博文がみずから
初代の内閣総理大臣に就任していた。一七年七月には華族令が公布され、公・侯・伯・子・男の五種類の爵位が設け
られ、皇族や旧公家・旧大名あるいは政府の功臣にそれらがあたえられていた。いずれも議会の開設に対し、天皇の
大権と政府の実権の確保をはかるための施策であり、「市制・町村制」もまたその一環であったといえる。
この「市制・町村制」は、明治二二年四月一日から各地の実情に応じて順次に施行することとされた。北多摩郡が
属する神奈川県では二一年五月二五日、各郡長に対し、町村制実施に関する町村の廃置分合、境界変更、基本財産の
おきもりかた
整理、町村事務・住民の権利義務、町村会の組織などの調査を命じている。そして沖守固知事が、六月六日に郡区長
を召集し、神奈川県の「市制・町村制」の施行期日を二二年四月一日と予定して、町村の合併に関する総括的方針を
提示した(「明治二十三年町村制施行順序」川崎市公文書館)。
そこでは、町村長を名誉職とし、収入役からは身元保証金を出させる方針を示していた。「町村制」第四条にもと
ついて、町村に一定の「自治」をあたえる代わりに、町村合併を推進し、国政委任事務を担任するための必要な資力
を求めている。町村の区域について、「有力ノ町村ヲ造成」するとし、三〇〇戸から五〇〇戸を目安に、それまでの
連合町村の一戸長所轄区域より小さくならないように指示した。そして、町村の区域の是非を検討するために、町村
吏の給料から公益事業に用いる費目・金高までの「町村ノ負担」、および一か年の支出金高と収入の詳細を取り調べ
た「町村ノカ」を提出するように命じている。
神奈川県では、独立した町村となるための必要な設備の条件として、町村長以下吏員の定数はもちろん町村事務所
の設置、尋常・簡易小学校や公共墓地、さらには種痘所・避病院の設置などをあげていた。徴税・戸籍.徴兵。教