【芋窪街道】

【芋窪街道】

『まだ、そんなのが東大和にあるんだ・・・?』
『冗談じゃないよ。よくも無事に残った、と関心してんだ・・・。』
『だって、あんまりにも、古くさいジャン・・・。』

最新式のモノレールが走る道、チグハグに思うのも無理はありません。前回の鹿島様の要石の前を通って、新青梅街道を横切るとモノレールが走り、途中で別れて直進し、立川市の栄町に達する道です。先人達の焼け付くような情熱と労苦の固まりが道となっています。到達点の立川市栄町周辺は、曠野を芋久保村の人々が新田開発をして、新しくつくり出したところです。

享保十五年(一七三○)芋久保村(当時はこのように書いた)の名主・平左衛門が玉川上水の水を分けてもらって、新田を開発したいとの願いを出しました。水も不自由、木陰もない中を芋久保村から、毎日、毎日、開墾に通いました。当時の武蔵野は草原に「柴」(背が低い細い木)が生えていたと考えられています。その根を切っての開墾は、赤土の掘り起こしです。たちまち赤っ風が舞い上がります。隣の高木新田の例では、風の強い日は、弁当をあけることもできず、柴にしがみついて過ごしたと語られます。肥料も遠い道を運びます。みんなで助け合って、ようやく「芋窪新田」がまとまりました。その新田と親村・芋久保村が結びついた命の道です。
(次に続きます)