いづみのまわり地蔵さん
狛江(和泉の)
まわり地蔵さん
中島恵子
これは、江戸時代から、多摩の各地や江戸の所々方々の町やどを宿から宿へと巡っていた、まわり地蔵の話である。
このお地蔵さんは、狛江市和泉の泉龍寺にある延命子安地蔵で、通称は子育地蔵、巡行先では和泉のお地蔵さん、狛江のお地蔵さん、あるいは宿送りの地蔵さん、まわり地蔵さんなどと呼ばれていた。左手に小児を抱いた木造の坐像で、台座ともに四十センチ余りの大きさである。
いまは、いつも寺の本堂にまつられているが、戦争がようやくはげしくなる昭和十七、八年頃までは、毎月二十五日から翌月の二十二日まで、各地の講申などの家々をまわっていた。
ひろい巡行先
巡行先は、いつごろからか月ごとにきまっていた。たとえば八月から九月にかけては、いまの埼玉県入間市の宮寺を申心に所沢や青梅をふくむ地域、九月から十月は、北区の赤羽や十條あたり、そして十月から十一月は、立川方面などであった。
昭和十七、八年頃、立川方面の最後の巡行地は、現在の小金井・国分寺・小平・立川・東村山・東大和・武蔵村山・東久留米・所沢の九市、および瑞穂町にわたっている。
立川の柴崎村の名主、鈴木平九郎の『公私日記』によると、天保の頃には、いまの立川市富士見町や柴崎町、それに砂川の辺りにも巡行していた。そして、当時は多摩川を渡って日野の方までまわっている。
入間市の宮寺では、天明の飢饉のあと、疫病が流行って子どもが大勢亡くなったので、このお地蔵さんをお迎えすることにした、と云い伝えている。
江戸での評判はなかなかで、「十代か十一代の徳川さんは子どもが弱かったので、お地蔵さんがお駕籠で登城なきった」という泉龍寺の檀家の云い伝えもある。日本橋・神田・芝・青山・下谷・本所・板橋・巣鴨など、江戸の講中もさかんであったらしい。
お地蔵さんの宿
毎月二十五日の朝早くお地蔵さんは寺をお発ちになる。昔は、背負いこで、お厨子ごと背負われて行ったが、明治の末頃には小さな車を使うようになった。大八車に似たやや小型の黒塗りの車で、寺の九曜星の紋がついた木箱をのせ、その中にお厨子にはいったお地蔵さんを入れて、寺の男衆が、その月の講中の世話人の家へとひいて行った。
宿は、世話人の家が多かったが、「和泉のお地蔵さんの宿をすると、子どもが丈夫に育つ」とか「子供が授かる」といって、子どもの弱い家や子どもの欲しい家でも宿をした。代々世話人をしていた家には「お地蔵さんのおかげで子どもが丈夫に育った、子どもに恵まれた」という家が少なくない。
宿では奥座敷の床の間などに幕を張ってお厨子を置き、お明りをあげて牡丹餅やうどんなど供える。子育てや子授け、安産をねがうひとたちが、つぎつぎにおまいりにやってきて、よだれかけ・ずきん・カキ・サルなどを奉納したり、お借りしてゆく人もある。カキは端ぎれを三角形に縫って中に綿を入れ、口を紐でしめて柿の形にしたもの、サルは赤いきれなどでつくつた小きな括り猿である。カキやサルは、子どもの袖なしの背中につけて背守りのようにした。お地蔵さん にあげた物を身につけると子どもが丈夫に育つ、というのである。
子どもたちは、習字や図書を供えて、上達を祈顔した。お針が上手になるように、カキをつくったり雑巾を縫ってあげる女の子もあった。宿に集まってくる子どもたちは、菓子をもらったり、牡丹餅などをご馳走になって、大きな珠数をまわしながら百万遍のお念仏をするところもあった。
「二晩泊めるとお地蔵さまが泣く」といって、お地蔵さんの宿は、どこでも一夜かぎりである。翌日の午後、世話人や宿の人たちなどが次の宿へ送って行く。むこうから迎えにくることもあった。鉦を叩く人、赤や白の布に延命子安地蔵尊と書いた旗をかつぐ人たちもいて、お地蔵さんの車を中心に小さな行列ができた。
送りこみ
二十三日は「送りこみ」といって、その月の講中の人たちが、お地蔵さんを和泉の泉龍寺へ送りこみ、この夜は、寺でおこもりをする。送りこみの人たちのなかには、子授けや子育てを願うひと、年寄りや親に連れられた子どもたちもあった。二十三日の午後から、翌二十四日のお地蔵きんの縁日には、寺の境内に露店が出て、戦前まではたいそうにぎやかだった。文政年間の『武蔵名勝図会』は、その当時の縁日のにぎわいを「参詣の貴賎群集をなす」としるしている。(なかじましげこ日本民俗学会会員、狛江市在住) (多摩のあゆみ3号p40~41)
まわり地蔵の巡回順路
地蔵が地域に入ると到着を知らせる鉦がたたかれた。武蔵村山で地蔵が最初に立ち寄ったのは、三ツ木・残堀である。そして、地蔵はいったん瑞穂町殿ケ谷をまわったのち三ツ木・宿に来た。一泊した地蔵は、峰などをまわり中藤に送られた。横田に寄ることもあったという。中藤では、馬場、萩ノ尾、原山、入り、谷津、神明ケ谷戸、鍛冶ケ谷戸で一泊して、東大和の芋窪に送られた。
宿では、一年に一度他所からやってくる地蔵をまわり地蔵といった。子どもの育ちをよくする地蔵で、特定の家が二軒で交互にヤドをつとめた。「どこそこにお地蔵様が来るから」と誘いあってお参りに行った。地蔵の前では、年寄りたちが「ナンマンダブ」と念仏を唱えながら数珠繰りし、大きな玉が繰るとお辞儀をしていたという。
馬場では、「狛江の地蔵様」といった。三ツ木の宿まで迎えに行った。子どもに恵まれない家がヤドの申し込みをして、地蔵を泊めたという。 武蔵村山市史 民俗編 p618~620
狛江市史(p580~598)
大病人祈祷ノ為、又は難産ノ人之有るに付キ、途中乍ラも請待相願ヒ申ス人之有り候ハバ、全ク貴賤ノ御選なく、暫時も其ノ家に於テ御戸帳御開き成さレ、御願ノ御符御授ケ下サル可ク侯、
行列していく途中で大病人や難産の入から突然頼まれた場合、「全ク貴賎ノ御選なく」暫時でも、その家によって開帳し、御符を授けるように定めている②のも、この信仰の積極的な平等観や開放的気分を表わしている。