おっぴらき1
東大和市史資料編9p124~127
④伊勢講
江戸時代のお伊勢参りの過熱ぶりは大
変なもので、おかげ参り・抜け参りとい
うほとんど他人に頼る参拝も許されてい
たことも知られている。国学者本居宣長
の『玉勝間』には、宝永二年(一七〇
五)の五十日間に三六〇万人もの人が伊
勢へ行ったと記されている。
東大和市域でも、伊勢太々講が組まれ積金をして参宮を果していることが種々の文書からうかがい知ることができる。
今までの所、市内の古文書で最も古い参宮の記録は、狭山の杉本家文書『道中諸事之覚帳』である。宝暦四年(一七五四)二月十六日から四月十二日まで、およそ八十六日間の旅で、同行は中藤村二人・正楽寺村、萩之尾が一人ずつ、そして著者の石井勘左衛門ほか一人が後ケ谷村の杉本在住で都合六人であった。この帳は品川区の国立国文学資料館に保管されているが虫喰いが激しくかなり難読である。
蔵敷の内野家文書『里正日誌』では、文政十年(一八二七)の「内宮太々神楽長栄講連衆帳」が初出である。内容は小嶋勘兵衛が発願主となり、内宮の御師太郎館太夫を頼んで参宮をし太々神楽を奏上するための講中を組む呼掛けである。
予算のあらましと講金の積立法、金額、利子、日待などについて細かく定め、一ケ村一人の講親を決めて運営し三年目の正月に参宮を行うことが記されている。
その冒頭に、
一、此近辺外宮檀中につき外宮太々講は多
くこれ有り候へども隣村に内宮太々神
楽奉祀することこれ無し云々
とある。この近辺は既に伊勢山田の外宮
の御師三日市太夫次郎の檀中で、『里正
日誌」にも関係資料が見える。
その一つは文政十二年(一八二九)六
月のもので、その年の九月に行われる伊
勢大神宮の正遷宮の知らせである。他の
一通は安政四年(一八五七)の廻状で西
は瑞穂の富士山村から東は当市域の芋久
保、蔵敷、奈良橋三村の名主等へ宛てた
御師の檀廻りの触れが記されている。同
じ日に出された廻状が、狭山の杉本家文
書にもある。これも国文学研究資料館に
保管されているもので、この中に、所沢
市内の新堀村から始まり、山口から現在
多摩湖底となった内堀、宅部、後ケ谷、
高木、清水の各村の、前書になかった東
大和市域の村むらが書付けられている。
他にその前触れとして、前年の十月付け
の太夫次郎本人からの継立の依頼等の書
付けが十二月の御祓いと共に届けられて
いた。
次の年、安政四年三月十日、太夫の下
向の際の触れ状が前述の廻状であるが、
この後行われた檀廻りの模様はなかなか
興味深いので文書の中から簡単に意訳し
て抄述して見たいと思う。
○安政四年四月三日
蔵敷、奈良橋、内堀終る。
菩提木密厳院へ泊る
〇四月四日
後ケ谷村が今日の手始めなので、組
頭武右ヱ門・角左ヱ門・仁兵衛・五
郎兵ヱが宿の密厳院まで出迎えに行
く。太夫の一行は合計十一人である。
内訳は、太夫のほか、
手代小林卯三郎外一人、供侍二人、
長柄持ち一人、沓持ち一人、小姓
一人、長刀持ち一人、案内二人。
駕籠一丁、長持一樟
継立人足は十五名必要であるが、相
談の結果、南(表狭山)から八人、
清水分六人、林五人、計十九人差し
出した。昼食は清水村名主清左ヱ門
方で済まし、この日は高木村庄兵衛
方へ継送る。
この時の太夫からの土産は、名主と
円達院(氷川明神別当)へは万度祓
風呂敷、袋入り扇子一対、利久箸袋
入り五膳、太神宮供物等で、その他
村役人や小前の村民にも劔祓など相
応の品が授与された。
同文書には当時の勧化の記録もある。
当時このものものしい行列を迎えること
は、村むらにとって祭以上の一大行事だ
ったと思われる。このように伊勢太々講
は御師と深く関わっており、御師たちは
それぞれ檀家と呼ぶ定まった持場と連絡
を取っていた。
檀廻りから三年後の安政七年(一八六〇)正月から三月にかけて高木村の講中が行った参宮の旅日記が尾崎立岳家に残されている。動乱期の旅であったが、御師方での五日間のもてなしや、太々神楽の奉納等賑々(にぎ)しいありさまがうかがえる
ので少し長文になるが紹介しよう。()内は註。
十九日(一月)
一、新茶屋泊り秋田屋浅右衛門弐百五拾文
是より三日、市太夫より駕籠を出し手代一人案内いたし、二見参詣いたし、是より茶屋戻り、酒肴にて中食馳走に預り、是より太夫へ着館し酒肴にて、ニノ膳馳走有り(太夫方宿泊)
廿日には本神宮へ参詣、是より駕籠にて浅間(朝熊)へ参詣茶屋へ戻り酒肴にて馳走これ有り、是より太夫へ戻り酒肴にてニノ膳馳走有り(同家宿泊)
廿一日は太々御神楽、中喰には酒、固(かた)赤飯喰、夕喰は酒肴にて本膳五ノ膳馳走有り(宿泊)
廿二日は内宮兼谷太夫へ太々神楽上げ、酒肴にて三ノ膳馳走多し(宿泊)
廿三日は伊勢皇太神宮へ参詣致し、内宮より五十丁道三里半―後略―
このあと猿田彦大神の古社や天の岩戸等を廻り、廿四日出立で西国順礼の旅となるのである。
伊勢太々講の目的はその名称のとおり参宮と太々神楽の奏上であるが、東海道をそれて秋葉山や鳳来寺、高野山、熊野三山、四国の金比羅宮、安芸の宮鳴などの暦訪を兼ねた観光旅行の一面もあった。
長期の準備の末の出発で、まず長路の旅の安全を産土神に祈願し、お守札を懐中に村境まで不参の人や家族の見送りを受ける。留守宅では日日陰膳を供え、周囲からの留守見舞もあるという村を挙げての行事であった。無事帰村の暁には大層な饅別のお返しに走り廻ることは当然で、時には記念行事として氏神への建碑や神楽の奉納が行われ、村中はもちろん周囲の人びとにも参宮達成の興奮を伝える華々しい行事となった。
大正期にもなれば列車を使い、人力車も登場して伊勢講の旅も大分近代化されてきた。当時を知る人の話によれば服装も内織の紬の揃い(羽織と着物)に角帯を縮め、上にはラッコの毛皮の衿を付けたトンビ(二重廻し)を着込み、フェルトの中折帽子で足もとは駒下駄か畳付の草履という姿であった。持ち物は柳行李かバスケット、携行品は刺刀(かみそり)と手拭い、こうもり傘。腰に煙草入れを挾んでいた。
大正十一年一月十一日出発の清水の講は十日間程の予定で参宮の後京都へ寄る旅程を組んだ。二十代の人が多い十七、八人の講中であった。途中、高野山へ廻るつもりであったが雪に降られ、下駄穿きでは無理だと言われて断念したという。
高木の宮鍋家には二通の餞別帳がある。
天保十四年(一八四三)正月のものと、
一通は前述の万延元年(一八六〇)正月
のものである。餞別は金銭のほかに、山
口寺(山口観音の金乗院)、明楽寺、円
乗院の道中安全の護摩札や守札もある。
返礼の土産品の控えを見ると、箱入りの
吸物椀十人前、かよい盆、硯蓋一組など
かさばる品も多く唐機やろう引の風呂敷
などを主にして剣被(けんばらい)札、麻、守札、高
野山や西国三十三ケ所の絵山などを一軒
ずつに添えてある。朝熊山の万金丹もそ
のひとつである。信仰の裏付けかあると
はいえ、昔の旅の辛酸が思いやられるが、
その結晶ともいえる記念物が現在も市内
に残っているので次に列記してみよう。
清水神社内
・石階新築碑明治二十七年(一八九四)
伊勢太々連発願
・敷石之碑明治四十一年(一九〇八)
・灯籠一対大正九年(一九二○)
八幡神社内(奈良橋)
・灯籠一対昭和二十六年(一九五一)
伊勢講々員寄進
熊野神社内(蔵敷)
・伊勢神宮献灯明治一二年(一八七〇)
伊勢参宮を計画したが果せなかったため献灯した旨の銘文が台座にある。
豊鹿島神社内(芋窪)
・手水鉢文化四年(一八〇七)
伊勢年参講中講元以下二十六、七人の刻名がある。
◎金比羅講
金比羅講という講があった話を市内で
聞いたことはない。
高木に残る古い守札の中に、
東大和市史 p430~431
各村から集めた人足二十人を引き連れて応援に駈けつける。機敏
な行動は代官の賞讃を受けるが、名主としての杢左衛門の人物を
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偲ばせる所である。地震によるこの地域の被害はさほどではなか
ったとはいうが、七十一名もの講中を率いてこの時期の長旅であ
る。恐らく長い間の準備の末に予定通りに決行されたものであろ
う。
この時代は黒船の来航がしきりで幕府の屋台骨を揺り動かして
いた。その四年後の安政七年(一八六〇)一月に高木村を出発し
た十三名の講中があった。三月一日、万延に改元された年で三日
に桜田門外の変がおこった。講中は参宮で型のように太々神楽を
さぬき
奉納し西国巡礼の途中、讃岐の金比羅詣りのあたりで、現代なら
はず
その情報を知った筈である。当時のことであるから、その辺の事
情は道中記には触れられていない。
ひかえ
この時の旅日記は高木の尾崎立岳家の『道中日記拍之帳』であ
る。旅程は『可美方記行』と同様に、東海道へは八王子廻りで出
て掛川から秋葉山へ参拝し、豊川から東海道へ入る。伊勢街道の
新茶屋は御師が講中を出迎える所である。このあと五日間の御師
三日市太夫方での歓待ぶりは印象的と見え、細かく記されている。
もへつ
難所続きの熊野詣でを終え二月四日高野山に到着。宿坊は二階
堂高祖院である。「武州多摩郡ハニ階堂高祖院」とあるように、天
領の多かった多摩郡は将軍の御霊屋に近い高祖院と定められてい
ねんご
たようだ。この坊で三泊し先祖の供養を懇ろに勤めている。
このあと西国巡礼を重ねながら西国三十三番納めの札所谷汲山
へ向ったのが三月十一日。木曽路から長野の善光寺参詣の後、中
山道を東下し、所沢帰着、高木村は間近い。一月五日、「目出度く
始」まった旅は三月二十二日、ようやく無事終章を迎えた。
著者尾崎伝蔵、当時三十三歳、当主立岳氏の曽祖父に当たる。
明治新政府となった十六年、狭山村の若者が残した旅のあかし
が中村彰家所蔵の『休泊簿』である。当時はまだ貯水池ができる
前の谷戸の村、内堀に居住していた中村文吉という二十歳を越し
たばかりの青年の一入旅の記録である。講中の旅ではなかったが、
昔から成人を迎える儀式の意味をこめて参宮を行っていたことは
れんま
聞くことである。精神の錬磨と社会見学のため周囲の配慮があっ
たのである。この時も出立の朝は親類や近所の人たちが大勢集ま
って宴会を催し、門出を祝ったという。道中の安全を願って仕込
杖も用意された。勇躍旅立った文吉青年の懐には「旅行証」もし
っかり納められていた。身分証明書である。幕末までは関所を通
るため手形を必ず持っていたが、その慣習がまだ生きていた。
休泊簿は休泊地の領収簿である。道中記とは違うが、里数や舟
賃、宿の評価等の書入れがある。参宮の際は三日市家の印形を押
した「誌」とある頁に、太々神楽をはじめとして六日間の行動を
書付けて貰ってある。無事参宮を果した証明であろうか。
大正期になるとさすが鉄道、自動車、馬車、汽船、人力車と、
あらゆる交通手段を利用しての旅となる。高木の尾崎コト家所蔵
の『伊勢神宮講中参拝之記』は大正十三年九月二十八日出発の参
宮の記録で、参加者は二十五名であった。当時五十五歳の祖父和
助が会計役を勤めていたため、細かい収支が書込まれている。
明治四年に御師制度が廃され、昔のように御師の館で太々神楽
を奉納することはなく、この時も内宮の社殿で奉奏が行われた。
しかし宿泊の宇仁館での豪華な宴会や主人から支配人、料理人に
至るまで少からぬ祝儀を包んでいるのは、古くからの慣習がなお
生きていたのではないかと思われる。帰宅後も無事を祝し、留守
の人たちへの配慮として氏神での祝宴や神楽の奉納、建碑など村
を挙げての行事が後々まで余韻をひくのである。