おっぴらき3
東村山市史 通史編上巻p731~739
伊勢・大和・山城より金毘羅へ(2)
安政三年(一八五六)の正月二十一日多摩郡廻り田村中川知行分の江藤又吉ほか柳窪村・高木村などの農民同行
一一名は西国へ旅立った(江藤又次家文書)。宗門人別帳などで同行者をみる
と表4ー66のように、又吉(三七歳)、同村彦右衛門(五〇歳)、同村梅五郎
(二七歳)、柳久保村新五郎(年令不詳)、同村半次郎(一九歳)、同村吉五郎
(二二歳)、同村初五郎(二四歳)、同村留蔵(二一歳)、同村祥五郎(二四歳)、
高木村久蔵(年齢不詳)、同村勝五郎(年齢不詳)であった。さすがに遠国を廻る旅のことゆえ、廻り田村の村役人
彦右衛門を除き、大半が二〇歳代である。
同行一一名の者は、まず道中要心のこととして、次のような四項目を各々確認しあった。
①同行者はおたがいに口論に及んではならない。
②船頭・馬・駕籠への賃銭について争論に及んではならない。
③道中で出放題(でほうだい無遠慮な発言)な発言をしないように、旅の先々を考えて発言に慎しむように。
④旅行の道中、近道や廻り道をせず必ず道中案内書の通り歩行すること。
四項目の主眼は同行者一一名の内輪もめを押しとどめ、相互に堪忍すべきことを誓ったものである。歩行すること
二か月余りにも及ぶ行程を考えると、同行者の反目があれば旅は不快なものとなり、また事故にも通じるおそれが
あった。また同行一一名は、予定した旅宿はつぎのような看板を目印として宿舎とすることも誓い合っている。その
図により、この年の西国の旅は浪花講(なにわこう)に加入したものであったことがわかる。
正月二十一日、在所を出立した同行一一名は八王子へ着き同夜は松柴屋文蔵方へ泊った。旅籠代は二二四文であっ
た。江藤又吉の道中日記は、宿駅間の里数・宿泊代・名物など簡単な記載である。紹介に際し、当時の風情(ふぜい)を想起しながら叙述してみよう。
翌二十二日は武相国境近く杉山峠を通り橋本を経て厚木に着き熊沢屋へ泊った。この
間、当麻で一遍上人堂を拝し相模川を渡っている。渡し代は二四文、旅籠代は二三二文だった。
翌日は田村を経て平塚へ入った。いよいよ東海道をのぼることになる。一行は平塚へ着く前に八幡(やわた)八幡宮に参詣している。平塚より大磯へ着き、若松屋で中食をとった。昼食代を一〇〇文払い、小田原へ向かった。二十三日の宿泊
は虎屋三四郎、旅籠代二三二文を要した。小田原は大久保加賀守一一万石の城下町である。同宿より畑の茶屋まで二
里二〇丁、この間、のぼりは大難所であった。峠より右へ折れて箱根権現に詣で、多くの宝物を拝見する。湖水の先
に箱根関所があり、松屋で昼食をとった。代金は一〇〇文である。箱根から三島へ着き二十四日は綿屋伊兵衛へ宿泊
し旅籠代二二四文を支払った。
すでに相州を越えて豆州である。伊豆国一の宮の三島大明神に参詣し、さらに伊豆と駿河の国境の千貫樋(せんかんどい)も過ぎ、
沼津へ着く。高五万石水野出羽守の城をみて、千本松原から六代御前の石塔をみて原に向かっている。千本松原は天
文年間(一五三二~五五)、増誉(ぞうよ)上人が防風防潮のために植林したもので、現在は公園である。原とは浮島ケ原のこ
とで当時蒲焼が名物だった。現在の沼津市と富士市鈴川の間にある帯状の湿地である。愛鷹山(あしたか)の南麓に位置し、田子
の浦に沿って東西にのびている、かつて富士川の合戦の舞台となったあたりであろう。一行は富士山を初めて正面に
みて驚嘆している。
さらに、吉原へ歩を早め、甲州屋喜左衛門方で昼食をとり、代金一〇〇文を支払う。名物白酒の匂いに誘われなが
ら富士川の渡しを越す。代銭は二四文。川を渡ると岩渕宿である。ここから甲州身延山へ通ずる道がある。同行二
名は一路東海道をのぼり、海辺の蒲原を通る。この辺りより江尻へかけて三保松原が続いている。夕暮れをむかえ
て、ようよう由井に着き、うどん屋四郎兵衛方に泊った。旅籠代は二四八文を支払う。
翌朝、由井より西隣りの興津宿へ向かった。この間に薩唾峠(さつた)という難所があり苦労したようである。さらに興津川
を越えると宿駅へ到着する。当時一行は興津の清見寺より三保松原をのぞみ、絶景に感嘆した。また一行は清見寺近
くにあった平安時代の清見ケ関の跡にも立ち寄ったようだ。『更級日記』には「清見ケ関は片つ方は海なるに」とみ
えるので、平安期の海岸線は変化し幕末期には、現在の状況のように変りつつあったのであろう。
一行は約一里を歩き江尻へ着き、さらに久能山へ行った。途中より塩浜が続き、久能山まで舟があったが、一行は
「乗るべからず」と、舟を利用しなかった。砂嘴(さし)や砂州(さす)は変化して小島と陸繋したり、砂の堆積層をつくる。当時の
海水の入り込み具合により舟が用いられていたのであろう。久能山では交代衆榊原越中守の陣屋を経て、東照宮御廟
所の参詣に向かう。奥院は一〇名につき二〇〇文と案内賃二〇〇文の見物料金を求められた。案内人は参詣の節、
「◎麓略(そりやく)これなきように」と注意したという。境内門前の石垣彦太夫方で昼食をとったところ八八文だった。
久能山を下り二十六日は駿河国府中で万屋清三郎方に泊った。旅籠代は二二四文である。当時駿府城は御番城で、
定番・加番の城代が置かれていた。一行は駿府町一の宮浅間宮に参詣し、安部川を越して丸子(まりこ)に向かった。川越し賃
は三二文だった。丸子から、『伊勢物語』にみえる「駿河なる宇津の山べのうつつにもゆめにも人にあはぬなりけり」
で有名な宇津の谷峠(やとうげ)を越えて岡部へ向かい、同所江戸屋次郎右衛門方で昼食をとった。代金一〇〇文。また徳川家康
が鯛のテンプラで重症になったという駿河田中城本多豊前守四万石の居城も見物した。
一行はさらに藤枝、島田へと進み、駿河・遠江の境をなす大井川を越える。「越すに越されぬ」と馬子唄にも唄わ
れた有名な難所でもあり、越賃は三=二文と高額だった。
島田から榛原郡金谷(はいばらぐんかなや)へ着いた廻り田村の一行は、松屋へ泊った。旅籠代は二二四文。一行は金谷から牧野原台地
(昔は諏訪の原という)や、菊川を通ったのであろう。菊川では承久の乱に際し中納言宗行が命を失い、その後元弘
の変の折、日野俊基が「いにしへもかかるためしをきく川の同じ流れに身をや沈めん」と詠んだ話が『太平記』にあ
る。
一行は山坂をのぼり、小夜(さや佐夜)の中山に詣でる。道中日記に江藤又吉は観音堂の飴餅が名物だと記し、道中で
夜泣石をみている。観音堂は朱印一三石の久延寺にあり、夜泣石のいわれは山賊に殺された妊婦が墓中で産んだ子を
育てるために亡霊となって夜ごと飴を買いに来る。墓石の下で泣いていた赤子が成長して母の敵(かたき)を討ったという伝説
である。「此処より余程北方に無間山(むげん)が見ゆる」とも記している。無間山観音堂の鐘を撞くと、現世では財産を作る
が、来世では無間地獄に墜ちるという話を聞き、一行は登らずにわらび餅で有名な日坂(につさか新坂)へ下った。もう掛川
へ一里余りである。
江藤又吉の記した道中日記に名所旧跡の伝説などを補い、東海道をのぼる行程を述べてみたが、限られた紙数で
は、伊勢から上方(かみがた)を広汎に歩み、帰路は中山道を戻り善光寺詣りで終る旅の全容を紹介することは不可能である。行程の概要は表4…68にまとめたので参照していただきたい。
湯治の旅―
古代から温泉の効能はあまねく知られていた。病気の治療、疲労の快復、心労からの解放など、さまざまな効果を求めて人々は入湯した。農閑の季節に長期滞在し、自炊しながら湯治に励む習慣は、水
田地帯の裕福な地主にとっては年間行事の一つであった。湯治場(とうじば)も親が子供連れで滞在するので、代々引き継がれて
利用されていた。しかし江戸時代の狭山丘陵沿いの村々の農民が、遠方の湯治場へ行き長期滞在したい旨を支配役所
に届け出た願いなどは極めて少ない。要するに、毎年定期的に温泉へ保養の旅をする習慣はなかったのである。長期
の湯治暮しは高嶺の花であり、日常生活の感覚には存在しなかったというべきであろう。
――
安政3年(1856)の正月21日、多摩郡廻り田村・柳窪村・高木村などの農民同行11名の記録
高木村久蔵(年齢不詳)、勝五郎(年齢不詳)が参加。大半が20歳代である。
同行11名の者は、まず道中要心のこととして、次のような4項目を各々確認しあった。
①同行者はおたがいに口論に及んではならない。
②船頭・馬・駕籠への賃銭について争論に及んではならない。
③道中で出放題(でほうだい無遠慮な発言)な発言をしないように、旅の先々を考えて発言に慎しむように。
④旅行の道中、近道や廻り道をせず必ず道中案内書の通り歩行すること。
同行者11名の内輪もめを押しとどめ、相互に堪忍すべきことを誓ったものである。
往路 1月21日~2月3日
八王子(泊1)―橋本―厚木(泊2)―田むら―八幡(やわた)八幡宮に参詣―平塚―大磯―小田原(泊3)―箱根―箱根権現・箱根関所―三島(泊4)―一の宮の三島大明神に参詣―沼津―千本松原から六代御前の石塔―原―よし原―かん原―三保松原―由井(泊5)―難所の薩唾峠(さつた)超え―おきつ―えじり―久能山―東照宮御廟所を参詣―駿河府中(泊6)―まりこ―岡部―駿河田中城見学―藤枝―大井川を越える―島田―金谷(泊7)―日坂―夜泣石を見る―掛川―森―三倉(泊8)―犬居―坂下―秋葉山―戸倉―石打(泊9)―くま―太平―すやま―大野―鳳来寺―御坂―鳳来寺門(泊10)―前町門谷―新城―豊川―御油―赤坂(泊11)―藤川―岡崎―ちりゅう―鳴海―宮(泊12)―名古屋―甚目寺―津島―佐屋―桑名(泊13)―四日市―追分―神戸―白子―上野―津(泊14)―くもづ―月本―六軒―松阪―くしだ―新茶屋―小ばた―山田(泊15 3泊)―宮参り
帰路 2月6日~3月25日
二見浦―松阪―名張―丹波―奈良―高野山―三日市―明石―吉備津―丸亀―加古川―草津―関ヶ原―伏見―上田―軽井沢―榛名山―高崎―熊谷―河越