しんぶん大和

しんぶん大和 







天狗のうちわ
     文 素っ頓狂
「あった!」
「あそこでしょう」
「あ、確かに」
「羽のマークだ」
 狭山神社の鳥居前です。
「この鳥居のどこかに、謎解きの鍵があるよ。さて、どこでしょう?」
 との問いかけに、子供さん達は目を輝かせます。
「何の謎解き?」
「この神社の歴史だよ」
 狭山神社、様々な歴史を経てきました。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は次のように記します。
「天狗社、纔なる祠にて、上屋は六尺四方、前に鳥居を立り、鎮座の初めを伝へず」
 とします。また、狭山神社の社殿の中に、「寛政十一年(一七九九)四月吉日 天狗大明神」の大きな木札が保管されています。
 江戸時代、村の人々は天狗社、天狗大明神としておまつりしていたことがわかります。修験道と関係があったのでしょうか。
 ところが、明治元年(一八六八)、新政府はそれまで神様と仏様が一緒にまつられることが多かった神社について、神と仏を分離する政策をとりました。村の人々は複雑な思いで対応を余儀なくされました。意見や思いが沸騰し、議論が重ねられたことでしょう。明治十四年(一八八一)一月、村社として、祭神を伊弉諾尊、伊弉冉尊、神社名を「狭山神社」と定めました。
 鳥居のマークにはその間のことがぎっしりと詰められているようです。