ぼろっ籠

ぼろっ籠

武蔵村山市史 民俗編 177
〔背負う〕
 かつては遠い畑から屋敷まで、人の背丈をこえる六尺丈(約ニメートル)の長いショイパシゴ(背負い梯子)に多
量の麦束を背負ってくる姿をよく目にしたというが、ショイバシゴは武蔵村山のみならず、多摩地域の傾斜の少ない
畑作地帯に多く分布し、麦束やバヤなど軽くガサのあるものを付けて運ぶのに用いられた(写真146)。麦の場合、
一駄(六把)の束を付けたが、八〇~一〇〇キログラムにもなり、途中で一息つく時は背負ったままショイバシゴの
脚を地につけて休んだ。
またショイバシゴには、山間部など傾斜の激しい地で用いられる、二尺(約一メートル)丈のものもあるが、山の
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傾斜がゆるやかな丘陵地では、「般的な運搬具ではなかった。


 竹籠類では、代表的なものにクズッパを集める大型の背負い籠があり、ハチホンビネ、ハチホンベネ、ハチホンバネ、ハチホンバサミ、ハチホンベリ、オオカゴなどの呼称がある。八本の親骨(ヒネ)があることからその名の由来があるという。

 クズハキで集めたクズッパは、足できつく踏みながら詰めていくことで、籠を傾けても出にくくなる(写真I145)。いっぱいに詰めるとかなりの重量になるので、傾斜地を背負って運ぶには、斜めにゆっくりとあがることをこころがけた。途中でふいにバランスをくずし、籠を背負ったまま谷底までころがり落ちたことも思い出として語られる。ハチホンビネは摘み取った桑や茶葉を運ぶのにも用いられるが、籠目が大きいので、ウスベリ(ゴザ)を敷いたり、繭の出荷には木綿の大袋を籠に掛け、荷車で運んだ。

 背負い籠には、このほかにマグソッカンゴ(馬糞籠・写真1149)や、角型のオチャカゴなどの六ツ目ツブシ(雑編みともいう・写真I150)や、旅目編みを覆うように六ツ目編みをして籠目をつぶした二重構造のチュウカゴもある(写真I148)。

 青梅街道に乗り合い馬車が往き来したころは、道路に馬糞がよく落ちていたものであった。それも肥やしにするために拾い、マグソッカンゴに入れて持ち帰ったりした。オチャカゴは平たいために、背負うと背中でのおさまりがよく、普段に畑に出かける時にも用いられた。
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〔ノゲ押し〕
 大麦には頑固なノゲが付いており、クルリボウで粒を叩き付けても落ちにくいため、タチウス(臼)に藁縄製の輪を入れて、「ノゲ押し」をした。ノゲ押しの輪を入れることで、臼の中の籾がよく循環して、均一に掲くことができる。餅揚きのアゲヅキ(仕上げ揚き)にも用いる大型の杵で、ねじりながら揚くが、大変労力が要る作業であった。その後トウミ(唐箕)で風選し、シイナ(実の入らない籾)やゴミを除き、フルイ(篩)にかけてカマス(叺)や袋に入れて保存し、必要な分をそのつどジンガラウス(唐臼)やタチウスで搗き、殻をむいた。

〔さまざまに利用されるヘイザル〕

 暮らしのさまざまな場面に登場し、組み合わせ使われる重宝なモノもある。口縁よりも底がややすぼまった形で、手ごろな大きさの籠にヘイザル、ハイザルとよばれるものがある、(写真155)。新しいうちは脱穀した穀類を入れて、莚に広げたり唐箕にかけたりする時に用いられた。またこれ一杯でおよそ二斗の容量があることから、枡として穀類の簡単な計量もする。たとえば殻を取り去った麦ならば四杯、大麦ならば五杯で一俵の目安となった。また田植えの際の苗を運ぶ籠として用いたり、茶の生葉を入れるなど多岐にわたって使われる。

 多くは重量のあるものを入れて頻繁に用いられるため、底がいたみやすく、竹材が折れて穴があくと粒ものは入れられなくなるので、次に畑での野菜の収穫に、そして芋類などの土ものを入れるのに用い、さらにはツクテ(堆肥)
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を入れて畑に積むという用途に順次使いおろされ、転用を繰り返していく。いよいよ使えなくなると火にくべられ灰となり、またこれも畑の肥やしとなって土に返すのである。

 長い間繰り返し行われてきた営みには無駄がなく、恩恵を受けた道具や自然に答える行為がいつもあることを感じさせられる。

〔センゼッカゴからコンテナへ〕

 戦前までは、大根。白菜・スイカなど、野菜のことをセンゼエモノ、センゼエモンといい、売りものを意味した。収穫した野菜を入れ、市場まで運ぶのにセンゼッカゴ(角型の竹籠もある)を用いた(写真1-56)。これは昭和四〇年(一九六五)ころから普及したプラスチックのコンテナにとって代わった。コンテナは丈夫なことと安定して積み重ねられる重宝さから、現在、非常によく用いられている容器である。さらに最近では、規格化され形の整った野菜を段ボール箱に詰めて出荷するようになっている。