モニュメント総括2
16. つちんど
場所:東大和市湖畔第一緑地 設置日:平成6年3月31日
材質:ステンレススティール
サイズ:H3150×W3100×D2100センチメートル
(作品紹介)
今は貯水池に沈んでしまった村に、石川というところがありました。その村には池がたくさんあり、槌ヶ窪(つちがくぼ)の池もその一つです。
そこには、槌頭(つちんど)という頭が槌の形をした大蛇が棲(す)んでいました。これが、槌ヶ窪の地名の由来とも言われています。
しかし、江戸時代に池の廻りの木が伐採され、水かさが減ると、大蛇は姿を消し再び現れることはなかったと言うことです。これは「狭山の栞(しおり)」に書かれている伝説です。
17. ふくろう
場所:豊鹿島神社参道 設置日:平成4年1月28日
材質:黒御影石
サイズ:H1600×W600×D600センチメートル
(作品紹介)
豊鹿島神社の「けやき」は、樹齢千余年、神社の歴史と同じくらいといわれています。現在は、中ががらんどうになってしまい昔の面影はありませんが、昭和の初めまでは枝が大きく茂っていて、その周りを子供たちが十人位で手をつないでまわって遊びました。
当時は、人家も少なく、あたりが暗くなるとオッポッポ(ふくろう)がどこからか飛んできては、枝の上で眼を光らせていたので、通りすがりの若い娘たちを驚かせていたとのことです。
18. 子供みこし
場所:東大和市蔵敷公民館 設置日:平成4年10月29日
サイズ:H1650×W1000×D1000センチメートル
昔、蔵敷に子供だけのお祭りがありました。毎年養蚕が終わり、さつまいもを取り入れるまでの間に行なわれました。
祭りには、小学五、六年生の男の子が中心になって子供みこしをかついだそうです。
当日、みこしは、神主さんのおはらいを受け、二十人位でかつぎます。タスキに大きい子は大きな鈴を、小さい子は小さい鈴を五個づつつけて、シャン、シャン、シャンッと響かせました。家々を一軒一軒歩き、おひねり(祝い金)を集めたそうです。
19. 繭
場所:東大和市芝中中央公園 設置日:平成4年10月26日
材質:ブロンズ、黒御影石
サイズ:H2000×W700×D700センチメートル
(作品紹介)
昔、東大和市の農家では、養蚕(ようさん)が盛んに行われていました。養蚕とは、蚕蛾(かいこが)の幼虫である蚕が作った繭(まゆ)を糸にして売るために蚕を飼育することです。
昔は、農作物だけでは収入が少なく、不作だと半年や一年は苦しむこともあったため、養蚕は農家にとって貴重な収入源にもなっていましたので、蚕のことを「オコ様」とか、「カイコ様」と呼んでいました。
そのため畑には蚕の餌になる桑が一面に広がっていました。蚕を飼っている農家では、特に七月の下旬から八月二十日頃までは初秋養蚕で忙しく、九月は晩秋養蚕で大わらわでした。
20. いのしし
場所:東大和市郷土博物館 設置日:平成7年3月
サイズ:H1900×W1300×D700センチメートル
狭山丘陵は昔、いのししに多くの農作物や墓地が荒らされて、村の人達はたいそう困ったそうです。蔵敷には、次のような話しが伝わっています。
昔、御岳神社と奈良橋の八幡様の間の谷を「千光谷ツ」といい、そこに千光坊というお堂がありました。かたわらに墓地があって埋葬のたびに、山をこえていのししが来て掘り返してしまうので、困った人達はいのししの通り道に穴を掘って、その害を防いだと伝えられています。
21. 馬方勝っつぁん
場所:東大和市奈良橋市民センター内 設置日:平成3年3月19日
材質:ブロンズ
サイズ:H1200×W930×D340センチメートル,H1200×W350×D340センチメートル
(作品紹介)
今は、すでに湖底に沈んでしまった内堀集落に、お酒の好きな体格の良い馬方さんが仕事に来ていました。
その馬方さんは名前を「勝っつぁん」と言い、朝早くから馬車を引き、所沢の問屋から仕入れた注文の品物を、得意先に配達して回るのが毎日の仕事でした。
働き者の勝っつぁんは、お酒が何よりも楽しみにしていたので、時には酔っ払ってしまうこともあり、見かねた店の主人が馬に「家まで送っておくれ」と頼むと、馬はわかった様子で勝っつぁんが落ちないようにゆっくりと歩いていったということです。
22. ごはん塚
場所:東大和市二ツ池公園 設置日:平成5年3月27日
サイズ:H2500×W2500×D2500センチメートル
今は、多摩湖の湖底に沈んでしまいましたが、内堀と呼ばれていた地にこさ池という池がありました。その池は、歌枕に残る「狭山の池」とも言われている池で、この辺では最も大きく、田を潤す農業用水として長い間人々に使われていたそうです。
このこさ池には、昔、新田義貞が、鎌倉を攻めた時にこの付近に陣を布き、こさ池の水を汲んで、ごはんを炊き、軍勢に食べさせたということです。食べさせた場所は、こさ池に近い山の上で、「ごはん塚」といわれ、当時の伝説にまつわる塚があったそうです。
23. 高木の獅子舞い
場所:東大和市高木神社 設置日:平成4年1月30日
材質:ブロンズ
サイズ:H2100×W1200×D900センチメートル
高木の獅子舞いは江戸時代より、毎年九月十九日の高木神社の祭礼に奉納されました。昔、悪疫が流行したとき、その退散を祈願して踊られたのが始まりと伝えられています。
獅子舞の行列は、高木神社隣、昔の明楽寺跡の社務所で支度をととのえ、村役の先導にて練り歩き、神社前庭に進んだのです。
杉の大木の繁る境内で、笛の音や、歌に合わせ演ずる獅子舞は勇壮なものでした。
24. 高木のまんじゅっ鉦
場所:東大和市高木橋北側 設置日:平成7年3月
サイズ:H3500×W1750×D700センチメートル
大正の頃の高木には、一風変わった眺めを持った火の見櫓(やぐら)がありました。高さは十メートル足らず、下の方は腕が廻(まわ)らない位の檜(ひのき)の丸太で、一番上に枝木が打ちつけられ、直径四十センチくらいの鉦(かね)を鎖(くさり)で吊って(つって)ありました。この鉦が高木のまんじゅっ鉦といわれ、近隣にも知られる存在でした。
昭和四、五年のこと、鉄製の火の見櫓が建てられ、まんじゅっ鉦も半鐘に変わりました。その後、高木神社の蔵に納められた鉦は、再び、空襲を知らせる鉦として、南街の富士見通りに取りつけられましたが、今は残っていません。
25. 野球少年
場所:東大和市狭山公民館前 設置日:平成5年1月26日
材質:ブロンズ
サイズ:H2000×W1200×D700センチメートル
(作品紹介)
明治五年になると義務教育が始まりました。学校は、今までの寺子屋が仮校舎となり、五つの小学校ができました。その一つとして円乗院に喝力学舎(かつりきがくしゃ)ができました。
その頃、子供達は、木綿の着物に下駄か草履をはき、粉袋を開いた風呂敷には、弁当のさつま芋や学校の道具をくるみ、通学したそうです。
まだ野球は、はしりの頃で子供達は初めて行うスポーツに目を輝かせたそうです。
26. 清水囃子
場所:東大和市清水神社内 設置日:平成5年1月26日
材質:黒御影石
サイズ:H2000×W700×D700センチメートル
(作品紹介)
清水囃子は幕末に始まったそうです。その当時練習はなかなか大変だったようです。
農家が暇なのは冬ですから、どうしても練習は寒さが身にしみる時期に行われます。練習場所 は清水神社境内にありました公会堂でした。
毎日寒げいこが続いて、清水神社の森に笛や太鼓の音が響きました。
戦後の昭和28年に、しばらく途絶えていたお囃子が始めれれ、現在も清水囃子として引き継がれ祭礼や市の催し等で演じられています。
27. 火をふところに入れた法印さん
場所:東大和市清水集会所 設置日:平成7年3月
サイズ:H1400×W1000×D1000センチメートル
江戸時代末期のことですが、清水に持宝院(じほういん)という修験(しゅげん)の法印(ほういん)さんが居ました。
一人の馬方が酒に酔って悪態(あくたい)をついてからんできました。相手の男は、「酒の肴(さかな)に」と言って、真っ赤におこった炭火(おき)を火箸(ひばし)にはさんで法印に差し出しました。持宝院は少しも騒がず、そのまま懐に入れてしまいました。お返しにと同じように炭火を差し出しました。こればかりは、普通の人に受けられるものではなく、相手は目を白黒させて謝って(あやまって)しまいました。