中世の郷(『所沢市史』上p420~425)
古代において公領(国衙が支配していた土地)では郷がおかれていた。しかし、律令制的土地制度が解体されて、富豪層による積極的な開発がおこなわれるようになると、新たに郷(別名べちみよう)が生まれて、開発領主が郷司に補任された。このようにして発生した郷が中世の郷へと発展していったのである。
中世になると武蔵国は関東御分国となったので、北条時房は武蔵の国務を沙汰するに当たって、北条泰時の反対を押し切ってまで建暦二年(一二一二)に郷ごとに郷司職を置いている。この郷司職は古代の郷司の系譜を引くもので、開発領主の子孫が補任されたと考えられる。郷内には村があるが、この村は自然村落と考えられる。また、名(みよう)と呼ばれる農民の経営単位の土地が郷内に存在していた。このように郷は、中世においては荘園とともに行政上からも、また人びとの生活上からも重要な地域社会を構成していたといえる。
次に中世において所沢市域及び周辺に存在した郷名を、史料に基づいて確認できるものに限って掲げると表3ー3
の通りである。
二多摩郡・新座郡・入間郡の荘郷と村山党
福生郷
福生郷(ふつさごう)は多摩郡に属し、『新編武蔵風土記稿』によると福生村と熊川村を含むものであったといわれており、現在の東京都福生市の福生及び熊川の地に比定される。熊川神社の正長二年(一四二九)銘の棟札には、「福生郷英林書之」と記されている(写3-57)。また、福生村ともいわれており、東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷の阿豆佐味天神社の文明十四年(一四八二)銘棟札には、「大工多東郡福生村住人孫五郎定杖」と記されている。したがって福生郷は室町時代からの郷名である。
宅部郷(やけべごう)
宅部郷は多摩郡に属し、現在の東京都東大和市域に比定される。宅部郷という郷名は、正福寺地蔵堂の応永年間(一三九四~一四二八)墨書に「宅部郷金剛山正福寺」と記載されている。さらに豊鹿島神社の天文十九年(一五五〇)銘棟札にも「宅部郷」という郷名がある。また、『新編武蔵風土記稿』に記されている氷川社の永禄十二年(一五六九)の板絵像には、「武州多東郡宅部郷」と記されている。
村山郷
村山郷は多摩郡に属し、近世の初期においては、箱根ヶ崎・殿ヶ谷・石畑・城の岸の四か村を村山と言っているところをみると、現在の東京都西多摩郡瑞穂町及び同武蔵村山市域に比定される。平安時代から存在したと考えられる古い郷名である。
村山郷は武蔵七党の一つである村山党発生の地として知られている。村山党は野与党と同じく平忠恒の子孫で、頼任(よりとう)が村山に住んで村山貫主(かんず)と称したのに始まる。村山頼任は村山の開発領主で、ここを本貫の地としたので村山を名乗り、子孫もまた村山党と称したのである。村山党は平安時代の末期さかんに入間郡を中心に東京都旧北多摩郡へかけて開発をおこない、移住した土地の名をとって苗字として名乗るようになった。彼らは武装化して開発した所領を自衛し、独自の武士団を結成していったのである。このようにして村山党はしだいに増加して、村山・大井・宮寺・金子・山口・須黒・横山・久米・仙波・広屋・荒波多・難波田の諸氏を数えるようになった。
『吾妻鏡』によると治承・寿永の乱のとき、村山輩(ともがら)は畠山重忠に従い、治承四年(一一八O)八月二十六日、源頼朝へ味方した三浦義明を衣笠城(神奈川県横須賀市)に攻めている(中世資料643)。また、元久二年(一二〇五)六月二十二日、北条時政が畠山重忠を二俣川(ふたまたがわ 神奈川県横浜市)で誅伐したとき、村山党は北条義時に従軍している(中世資料680)。
『承久軍物語』によると村山党は、承久の乱の際に北条時房に従い、承久三年(一二二一)六月十二日の勢多橋の戦(滋賀県大津市)で三番目に桁(けた)を渡ろうとして苦戦している(中世資料698)。
村山党の活躍は、南北朝時代になっても依然として見られる。『太平記』によると村山党は、文和元年(一三五二)閏二月
新田義宗・脇谷義治が鎌倉を攻略したときに従軍している(中世資料717)。その後は足利方となり、
『源威集』によると文和四年二月十五日、畠山義煕(よしひろ)に属して京都の法勝寺前で陣を取り、南朝方と戦っている。
村山郷は村山党発生の地であるので、後世に至るまで村山党の武士の所領として継承されてきた。村山党に属していた仙波信綱は村山郷の地頭で
あったが、一族の仙波秀阿(しゆうあ)と村山郷内地頭職(じとうしき)を争い鎌倉府へ提訴した。鎌
倉公方足利氏満は応安七年(一三七四)八月九日に信綱の訴えを認めて、秀阿の押領を退け下地を信綱の代官に渡すように上杉憲方に命じている(保坂潤治氏所蔵文書)
片山郷
新座郡(にいくら)に属し、現在の新座市(にいざ)片山の地に比定される。ここは鎌倉時代になっても公領として存続し
ており、武蔵国衙の支配を受けていた。弘安二年(一二七九)の国庫納米員員数注文(金沢文庫文書)には「片山
五石四斗七升五合」とあり、同年の国庫五升米として片山郷から五石四斗七升五合が武蔵国衙へ上納されている。こ
の国庫五升米は、おそらく段別五升の基準で賦課されたものであろうから、当時の片山郷の公田は一〇町九段一八〇
歩あったことになる。
なお片山郷別所は、「片山文書」の弘安三年(一二八〇)十月十八日付の将軍家政所下文案(しようぐんけまんどころくだしぶみあん写3-58)によると、
平(片山)親基が子息万寿丸へ譲り与えて、この日万寿丸が鎌倉幕府から安堵(あんど)されている。
このように片山郷別所の領主であった片山氏は、丹波国和智荘をも領有して幕府の御家人であった。そのため片山
ぎょうぶ
刑部太郎・同八郎太郎は、『吾妻鏡』によると建保元年(==三)五月三日、和田義盛が北条義時を恨んで幕府を襲
撃した際に、幕府軍に属して討死をしている(紳雌殴酬)。また、幕府が元弘三年(一三三三)に滅亡したとき、片山祐
ろくはら
珪・同祥明は京都六波羅北方探題北条仲時に従っていた。六波羅南北探題は滅亡して近江へ脱出したが、在地の武士
ろくはら
たちに追撃されて、仲時主従四三〇余名は番場宿(滋賀県坂田郡米原町)で自害をした。『陸波羅南北過去帳』には祐
珪・祥明の名前があり、このとき自害したことがわかる。
足利尊氏が康永元年(一三四二)に天龍寺を造営して参詣したとき、『天龍寺造営記録』には片山高親が供奉したと
記されている。
片山郷は、『伏見院御集』に「里近キ片山陰ト思ヘトモイトフ心ヤ深クスムラン」と詠われている。
山口郷
入間郡に属し、現在の所沢市山口に比定される。狭山丘陵の柳瀬川流域の地で、地下水に乏しい所沢市域にあっては最も安定した生活が営まれていた地域といえる。
山口郷には平安時代の末期、村山党の家継が定住して山口氏の祖となった。家継は村山頼家の子で、最初は村山小七郎といったが、山口に移住すると山口七郎と称した。所沢市山口字児泉(ちこいずみ)にある山口城は、その居館の跡とされている(第五章第一節二参照)。家継の子家俊は、保元の乱の際に村山党の金子家忠・仙波家信らとともに源義朝に従軍して白河殿を攻め落とし、敵の三町礫(つぶて)紀平治大夫の右腕を斬る活躍をしたことが『保元物語』に記されている。村山党は源頼朝が治承四年(一一八〇)に挙兵をしたとき、秩父一族とともに平家方となって衣笠城(きぬがさ 神奈川県横須賀市)攻撃に従軍したが、その後は頼朝に従い御家人となった。『源平盛衰記』によると山口氏は源範頼に従軍して上洛し、木曾義仲軍と戦ったことが記されている(中世資料643)。
『吾妻鏡』は、頼朝が文治四年(一一八八)三月十五日に鶴岡八幡宮へ参詣したときに山口太郎が、建久元年(一一九〇)十一月七日に上洛したときに山口家継・同季継・同信景が、また同六年二月十四日に東大寺供養のために鎌倉を出発したときに山口信景が随兵となっていることを記している(中世資料658)。
承久の乱のときには、村山党は北条時房ならびに同泰時に従軍して活躍をしている。山口兵衛尉・同兵衛太郎は承久三年(一二二一)六月十四日に行なわれた宇治(京都府宇治市)の合戦のとき、『吾妻鏡』によると勲功があったり負傷をしている。
鎌倉の御家人は京都大番役といって、上洛して禁裏の警固などにつかなければならなかった。『経光卿記』によると武蔵国住人山口三郎は、天福元年(一二三三)五月九日、京都の薪日吉社(いまひえしや)でおこなわれた小五月会に流鏑馬(やぶさめ)があり、
的立役を務めている。彼は当時、大番役で在京中だったのであろう。その後、『吾妻鏡』によると由口三郎兵衛尉は、寛元三年(一二四五)八月十六日、鶴岡八幡宮馬場の儀で競馬の四番手を務めている。
元弘三年(一三三三)に新田義貞が上野生品明神(いくしなみようじん 群馬県新田郡新田町)で挙兵して鎌倉幕府を滅亡させたとき、幕府方では最初、新田軍を邀撃(ようげき)するために桜田貞国を大将として鎌倉街道上道へ向かわせた。しかし、幕府軍は五月十一日におこなわれた小手指原の合戦に敗れて分倍河原(ぶばい 東京都府中市・多摩市)へ退き、新田軍は久米川(同東村山市)へ進出した。『梅松論』によると幕府は、五月十四日に北条泰家(高時の弟)を大将として武蔵へ発向させ、同日山口の庄の山野へ布陣し、翌十五日には分倍・関戸河原(東京都多摩市)で両軍の激戦があったと記されている(中世資料708)。この山口の庄とは山口郷で、鎌倉街道上道を北上した泰家がここまで進撃して、両軍が一進一退を重ねていたことになる。
山口郷は北野まで含む地域であったのか、「北野天神社文書」中にある応永四年(一三九七)八月二十五日付の足利氏満寄進状(写3-59)では「山口郷内北野宮」とある(中世資料269)。この文書によると鎌倉公方足利氏満は、北野天神社へ山口郷内の田畠在家を寄進している。
ところで、山口氏はその後も山口郷の領主であった。『鎌倉大草紙』には山口次郎四郎という武士が永享十二年(一四四〇)から翌年にかけて戦われた結城合戦で上杉清方の被官として参陣し、敵の工藤の首を取った、と記されている。
久米郷
久米郷は入間郡に所属しており、現在地は所沢市久米に比定される。村山党の武士である久米氏の本貫の地にあたる。久米氏は山口家俊の子家高が久米郷に定住して始祖となった。現在、久米には久米氏の館跡と思われるものが存在しないが、隣接する北秋津字峰際には大堀山があり(第五章第一節三参照)、中世豪族の居館跡であるので、ここが久米氏の館跡と考えられる。したがって、中世の久米郷は北秋津まで含んだ地域となる。
家高の嫡子家時は『承久軍物語』によると承久三年(一二二一)六月十二日、北条時房に従軍して勢多橋(滋賀県大津市)で合戦し、苦戦した様子が記されている(中世史料六九七頁)。
「小杉本淡路古文書」中にある嘉元三年(一三〇五)五月八日付の平長家譲状案によると、長家は久米郷内所沢宿の三分の一の所領を、おとはち丸に譲っている。これによると所沢宿は、鎌倉時代のころ久米郷に所属していたことがわかる。また、永源寺にかつてあった応永二十九年(一四二二)銘梵鐘にも、「武州入東郡久米郷大龍山永源禅寺」とあるので、このことが確認できる。
ところで、「正木文書」には建武二年(一三三五)十一日九日付の橘行貞(たちばなのゆきさだ)打渡状写があり、矢野伊賀入道善久跡の「一所久米宿在家六間多東郡内」が、岩松経家跡御代官頼円・定順らに打ち渡されている。これによると久米宿は多東郡(多摩郡の東半)に所属したことになるが、この文書は写しなので久米川宿(東京都東村山市)の誤写なのかも知れない。
荒波多
入間郡に属し、現在の所沢市荒幡に比定される。村山党の荒波多氏は、ここを本貫地として、山口季信の子某を始祖とする。なお荒波多氏については、残念ながら史料を欠き不詳である。
三ケ嶋郷
入間郡に所属して、現在の所沢市三ケ島に比定される。「篠井文書」(しのい)にある天正七年(一五七九)八
月二十七日付の聖護院門跡御教書(しょうごいんもんぜきみきょうじょ)(中世資料393)には、「三日嶋郷衆分」とある。また、同文書中にある
天正八年六月七日付の北条氏照判物(中世史料三九五頁)でも同様な記載がある。しかし、所沢市三ケ島中氷川神社にある天正五
年(一五七七)銘の懸仏(かけぽとけ)によると、「武州入東郡宮寺郷三ケ島村宝蔵坊」という銘文があるので、宮寺郷(所沢市・入
間市)に所属して三ケ島村と呼ばれていたこともある(第六章第四節三参照、中世史料二六六頁)。
宮寺郷
入間郡に属し、現在の所沢市・入間市にわたる不老川(としとらず)流域の台地が宮寺郷であって、現在でも入
間市域に宮寺の地名が残されている。先述したように所沢市中氷川神社にある天正五年銘の懸仏に
は、「武州入東郡宮寺郷三ケ島村宝蔵坊」という銘文がある。村山党宮寺氏本貫の地で、村山頼家の次男家平が宮寺
郷に住んで宮寺氏の始祖となった。その館跡(写3-60)と思われるものが、宮寺の西勝院境内地に残されている。
『承久軍物語』には宮寺三郎の名が見え、承久三年(一二二一)六月十四日の宇治橋の合戦で幕府軍に加わり負傷を
したと記されている(中世資料700)。『吾妻鏡』では宮寺政員が正嘉二年(一二五八)正月十日、宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣