丸山台

丸山台

青梅街道道筋

東大和市が青梅街道を「桜街道」と称した根拠は、瘡守神社付近から西の残堀集落にかけての約六キロの沿道に、かつては桜が植えられていたことに基ずいている。天保五年(一八三四)に発行された『御嶽菅笠』に描かれたスケッチを見ると、旗をかついだ御嶽参りの道者が今にも青梅橋に差し掛ろうとしている。橋を渡ると千本桜といわれる並木が続く。並木道の向こうには丸山台があり、一軒の家が描かれている。挿入画には多少の手心が加えられているが、全く異なっていたとは思われない。江戸時代の状況については不明であるが、明治末期頃にはまだ桜の木も旺盛で、町内運動会が行なわれていたこともあり、また大正時代末期にもまだ、大きな桜の木の下で花見ができたようである。青梅橋から西の方は、道は直線状で起伏もほとんどないところで、単調な風景が続くため、桜並木は旅人の心を慰めたことであろう。

ところで、『指田日記』は指田摂津正藤詮が天保五年(一八三四)から明治三年(一八七〇)までの間の、身近な出来事を書いた日記である。丸山台については、次のニケ所に記録されている。

天保十二年(一八四一)閨正月十八日の項には、
「中藤孫兵衛、先年丸山台一ツ家二住シ、些ノ商ヒヲイタシ借金アルニヨリ村内勘当ニテアリシ所、コノセツ侘叶ヒケレドモロ腹ヲ養フ職ナシ、ヨツテ神職ニナリタキヨシ、同村浅右衛門証人ニテ同道シ来ルニヨリ許容ス。」

また、安政三年(一八五六)八月十八日の項には、
「村方七月中ヨリ痢疾多ク死去多キ故、村方談シノ上、痢疾邪気送リ致シ度ヲ申ニヨリ、予・常宝院両人ニテ疫神送の如く、村中予か宅に寄集り、異形の出立人々思々事ヲ致シ丸山台二送ル、此日酒大樽一斗一樽一樽ニシテ不足」

この「丸山台一ツ家」は、指田日記によると「孫兵衛の家」に該当することになる。当時の青梅街道を往来する通行人が少なかったためであろうか、商いが繁盛しなかったらしく、借金で首が回らなくなり、神職に付いている。また丸山台がある位置は、集落からかなり離れた荒野の真ん中であったため、特殊な場所であったようである。右記の孫兵衛宅であろうか、『御嶽菅笠』によると天保四年には、丸山台に深さ二五間(約四四メートル)の井戸が掘られている。街道を往来する旅人たちは、この井戸から汲みだされた水で、喉を潤したことであろう。なお、丸山台の位置は、現在では不明である。

道は直線状で起伏もほとんどなく、約二ニキロ進んだところからは武蔵村山市に入る。旧中藤村である。村山団地の中を約六〇〇メートル西に進むと、そこから先は住宅地に変わり、さらに約一・一キロ進むと日産通りと交わる榎交差点になる。かつての青梅街道は榎交差点から西へ向かっていたが、日産自動車村山工場のため、約三〇〇メートルで行止まりとなる。再び表れるのは村山工場の西側で、上砂橋の東の坂上である。上砂橋は立川断層に沿って流れる残堀川に架かる橋である。残堀川は箱根ケ崎宿の西にある狭山ケ池に源を発し、
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多摩川に注ぐ延長約十五・五キロの河川で、大雨のときにはたびたび氾濫している。青梅街道は坂道を下ったところで残堀川に架かる上砂橋を渡って西に向かうが、上砂橋を渡らずに北西の箱根ケ崎に向かう細い道もある。そして、この上砂橋から七〇〇メートル西に進むと残堀集落である。