享徳の乱(青梅市史上)
両派の争い
成氏が公方となるとまもなく、父持氏の旧臣どもが集まって反上杉派を形成し、またもや上杉党(管領方という)と成氏党(御所方という)の二派が、ことことに相争う始末となった。成氏も上杉氏が父の仇であるとの考えを捨てず、側近者もこれに一致し、享徳三年(一四五四)御所方は憲実の子上杉憲忠を誘殺した。当時成氏はわずか十一歳の少年であったから、むろん成氏派の豪族どもが、裏面で成氏をそそのかしたことは、想像に難くない。
この以後、御所方と管領方との反目は表面に現れ激しい勢力争いが行われ、関東は戦乱時代に突入した。このころから、関東地方一帯に城廓の築造が盛んに行われて、幾多の攻防戦が展開されるに至った。江戸・平塚・練馬・ .石浜・赤塚・石神井・村山・二の宮・高月・椚田などが当時都下における城塞といわれ、三田氏の勝沼城もこの一環として、杣保一帯を確保していたものと考えられる。
成氏に殺された上杉憲忠の臣長尾昌賢は憲忠の弟房顕を立てて管領とし、さらに、禅秀の乱において持氏によって除かれた上杉持朝・大石房重らと、禅秀の子上杉憲顕を語らい、上州白井城によって成氏に反抗した。
これに応じて上杉持朝の軍は相模の領地糟屋から現在の伊勢原付近に打って出たので、成氏も一色・武田の諸将を派してこれをうたせ、自ら一千余騎の兵をひきいて鎌倉を出発し、享徳四年(康正元年・一四五五)一月府中に至り、父持氏にならって高安寺に陣した。
これに対し、上杉房顕、同憲顕は二千余騎を従えて上州白井を進発し、一月二十一日立川原まで押し寄せて来た。高安寺にいた成氏は五百余騎でこれに立ち向かい、またもや分陪河原で大激戦を展開した。上杉憲顕は先手の大将として奮戦したが、重傷を負って敗走し、現・日野市高幡の金剛寺(高幡不動)にのがれて切腹し果てた。翌日も多摩川を中心に激しい合戦がつづき、両軍とも多くの死傷者を出したが、ついに成氏方の勝利となり、上杉房顕も大石房重も戦死し、残軍は潰走して、上杉持朝・長尾昌賢は常陸に去って小栗城に拠ったが、四月にはこの城もおち、上杉方は下野(しもつけ)方面へ逃れ去った。
両公方の並立
その後、京都の幕府では駿河の今川範忠を派遣して鎌倉へ攻め入らせ、成氏の軍を打ち破ったので、成氏は鎌倉を捨てて府中へ走り、ついで下総の古河に移った。その後はついに鎌倉を回復することが出来ず、そのまま久しく古河にとどまったので、世に古河公方と称せられた。これ以来鎌倉は、もはや関東の政治の中心でなくなってしまったのである。
成氏は古河にあって、下総・常陸・下野方面を勢力範囲とし、上杉氏は五十子(いかこ 本庄市)にあって、武蔵・相模・伊豆 .上野・上総を手中に収め、利根川をはさんで相対した。(青梅市史上 p283)
しかしこの間に、京都の幕府では、成氏取り潰しと決し、渋川義鏡を関東探題に任じて上杉氏をたすけ、また将軍義政の弟政智を関東に下し、鎌倉に居館がないので、伊豆の堀越(韮山)に居館をおかせた。これを堀越公方と称し、成氏の古河公方と共に両公方という。
このころ扇谷上杉氏の重臣太田資長入道道灌は、古河公方に備える防塞として、江戸・河越・岩槻の諸城を築いた。道灌が江戸城を築いたのは、長禄元年(一四五七)のことで、これが今日の首都大東京の、生まれ出た萌芽であった。
両上杉家の対立
一方山内上杉氏では房顕の死後、越後の上杉房定の子顕定を後嗣とした。山内家には長尾景信があって主の顕定をたすけ、成氏は対抗していたが、顕定は景信の死後、その弟忠景をして継承させた。このため景信の子景春は、顕定の処置を不満として顕定にそむいた。
文明八年(一四七六)長尾景春は、古河公方に味方して鉢形城(埼玉県寄居町付近)により、顕定、憲房、定正らの五十子(本庄市)の陣を急襲し、これを破って上州白井へ敗走させた。
南武蔵では、豊島泰経が景春に味方して、石神井城(練馬区)、練馬城(豊島園)、平塚城(北区)などに拠り、江戸、河越両城の間を遮断する態勢をとったので、江戸城にいた扇谷定正の重臣太田道灌は、これを討って村山(武蔵村山市)に陣し、丸子城(丸子多摩川)、二の宮城(秋川市)などに拠って反抗する景春の一党を破り、約二年の後、武蔵、相模の両国から、景春派を一掃したのであった。後に述べる三田弾正忠宛の上杉顕定書状(図版 7)は、このような状況の下に出されたものである。
道灌はさらに、下総、上総方面に進撃して、千葉、武田、海上らの諸将を討ち、その声望は主の定正をしのぐばかりであった。と同時に、道灌を擁した扇谷上杉家の勢力も、ますます盛んとなり、山内家を圧した。
ところが主の上杉定正は、臣下の讒言を信じて、己が股肱とたのむ太田道灌を、文明十八年(一四八六)七月、相模国糟屋の館で暗殺してしまった。
『鎌倉管領九代後記』によれば、この暗殺は、扇谷家の隆盛を怖れた山内顕定の策謀によるものであるという。
これ以後、山内上杉の隆運にひきかえ、道灌という翼をもがれた扇谷上杉は衰運に向かい、両上杉は次第に不和となって、ついに扇谷定正はその死に至る八か年余を顕定との対立のうちにすごした。
道灌が暗殺された直後、その子江戸城主太田資康は、定正のもとを去って顕定の陣営に加わった。顕定は糟屋の定正を討とうと、長享二年(一四八八)鉢形城を出て南下したが、相模の実蒔原(伊勢原市付近)で定正のために敗られ、顕定はいったん退いて勢力を盛り返したにもかかわらず、再び須賀谷原(埼玉県比企郡)で敗退した。顕定は越後の上杉定正の助けを借り、定正は多年の敵とした古河公方の救いを求め、両上杉の抗争はますますその激しさを加えた。
早雲の台頭
前にすこしく触れた伊豆の堀越御所では、延徳三年(一四九一)公方足利政知が死去し、子の茶茶丸が嗣いだが、かれは讒言を信じてその家臣を殺し、家臣の間にも争いが絶えなかった。この機に乗じて駿河今川氏の客将伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は、堀越御所を急襲して茶茶丸を自殺させ、韮山城を本拠として伊豆の北部をしたがえ、関東における両上杉の抗争をうかがっていた。
明応三年(一四九四)伊勢長氏は、相模三浦の新井城を攻めたが、このとき扇谷定正の子上杉朝良は兵を出して長氏を助け、これ以後伊勢氏は扇谷派を援け山内派に対した。同年顕定と定正は再び戦い、長氏は定正を援けて北企郡高見原に陣し、荒川をはさんで顕定の軍と戦った。このとき定正は長氏とともに渡河しようとして、誤って落馬し急死したので部下は潰走し、子の朝良は敗軍を収めて河越城により、長氏も伊豆へ引き上げてしまった。
古河公方成氏は、定正の死後、今度は顕定と連合して朝良を圧迫し、顕定は上野白井城を根拠とし、鉢形(寄居)・上戸(川越 .所沢の中間)に塁をおさめて扇谷家を押え、一方朝良は河越城を基地とし、江戸・椚田(八王子市椚田)・桝形(川崎市登戸)の諸城を占めて相対したが、後述のごとく立川原合戦を経て永正二年両上杉の和睦が成立し、多年にわたった抗争に終止符を打ったのであった。
以上、南北朝・室町の両時代を通じて抗争と戦乱の記述を重ねてきたが、この間、青梅市を含む杣保の地域内ばかりは全くの平和境であった。それはこの地方にいささかも、当時の戦乱の波及したような史料や伝説が存在しないことによってわかるのである。(青梅市史上p282~ 287)