今はむかし大和村
今はむかし大和村
ある徴用工の戦後
戦後の南街を語る前に改めて航空
機工場と南街の生い立ちを簡単に説
明しようと思う。
日立航空機立川工場は、前身の瓦
斯電気時代に大田区大森から農村の
大和村に移転してきた。社宅という名
の住宅群と各種の寮を有する新しい
形のいわゆる"地方に分散された軍需
工場"で、狭山丘陵に沿った集落を
本村、工場付属の新興住宅地区を南
街と便宜上呼び、両者の間には広々
とした原(畑)があった。
工場要員確保のために施行された
徴用を逃れようということもあって
か、本村の人たちも多く工場に勤め
るようになった。給料はよく、食糧
などの物資の調達を会社は村に求め
ることもあって、工場は次第に歓迎
され村は大いに潤った。
昭和二十年八月十五日の戦争終結
に続く軍需工場解体で、本村は農を
主とする本来の姿に戻り、南街は他
に例を見ないような失業者集団の住
む孤島に変貌し、住民はまさに敗戦
日本の落とし子であったように思
う。
後で述べるように、この日を境に
して南街は苦難の道を歩むことにな
った。今回は南街に踏みとどまった
ある徴用工の、自力で生きた終戦当
時の姿を追ってみることにした。
幸いに社宅は戦災を免れた。生き
るための食糧確保が最重要課題であ
った。買い出しに目の色を変え、終
戦前からの空地の耕作に一層の精を
出した。
足を棒にして職を求めたが無駄な
日が続いた。農家の畑仕事を手伝っ
たが僅かな食糧を得るだけで金には
ならなかった。社宅に住む人のやる
炭焼きを手伝ったこともある。
お金が欲しいので担ぎ屋になっ
た。新潟へ出かけて二斗ばかりの米
を背負って帰るのである。食べ料は
向う持ちでなにがしかの金をくれ
た。警察につかまった時、お産だと
いって逃れたが二十回も続いた担ぎ
屋をそれきり止めてしまった。
しばらくしてから町工場へ勤め
た。十日に給料を貰うが月末には懐
具合が淋しくなり、魚の配給があっ
ても買えなかった。金を借りたが、
返せないので配給の酒を持っていっ
たこともある。
更に進駐軍に勤めるようになって
初めて生活にゆとりが生じ、少しは
金がたまるようになった。その後、
進駐軍は人員整理を始めたが、この
人は幸いに残ることができた。産業
界の全般的な不振で、失業者が激増
していたので、特殊な技術(例えば
自動車運転)がなければ再就職は極
めて困難であった。
「具体的な失業対策はない。この
頃見かける納豆売りや風船売りが増
えるだろうLと八王子の職安所長が
昭和二十四年十一月十日の新聞紙上
で語っていた。南街でも小さな商い
をするのを見かけるようになった。
この五月に、瓦斯電気立川友の会
が南街で総会を開いた。私は日立航
空機に入社したものであるが、誘わ
れたので出席した。戦中、戦後が懐
かしく蘇ってきた。
〈市報掲載年月日
昭和59年7月1日(市報第387号
シリーズ第60話)
PTAができた頃
戦争が終ると疎開者が帰って来
て、南街地区は次第に生気を取戻し
て来た。殆んどの人が失業者で、そ
れぞれ生きる道を求めて、真剣に職
を探した。立川などの進駐軍に勤め
る者が多くなった。遠く都内に勤め
る者は、大抵、武蔵大和まで歩いた。
配給物はすべて切符制で闇物資に
目の色を変えた。どの家庭も食べ盛
りの子供を幾人も抱えて、食糧不足
には特に苦しんだ。空地を見つけて
陸稲を蒔いたり、サツマ芋の苗を植
えたりして、ようやく食いつなぐこ
とができた。一升瓶に棒を突っ込ん
で、米を揚く風景がよく見られた。
村にはサツマ芋の買出部隊があふ
れ、南街にも米兵を多く見るように
なった。時折、束ねた毛布を背負っ
てひっそり帰る復員兵に会うが、み
んな自分の生活に忙しく立ち回って
いた。ラジオや新聞は、子供の学力
の低下と不良化(非行)を大きく取
り上げる一方、PTAについて解説
を繰り返していた。
戦時中、頻繁な警報の発令で登校
もままならなかった南街の子供達
は、戦後も、すさんだ生活をしてい
た。不欄(ふびん)な子供たちに幸
を呼び戻そうと親たちは部落毎に思
い思いの考えを持ちよった。手持の
品で、遊び場をこしらえたり、子供
を集めては紙芝居を見ぜたり、本を
読んで聞かせたり、時には飴を与え
たりした。
南街の人たちは、かつては生死を
共にした間柄である上に、年齢も境
遇も子沢山であることも似ていて、
子供に大きな期待をよせている者同
士であるので比較的簡単にPTAを
受け入れることができた。従来の後
援会を解散して、昭和二十三年に大
和村では最初の南街PTAが発足し
た。
会合に集るのは、殆んどが子供の
ことに最も関心の深い母親というこ