代々のががみ2
三十五代
享保十四年(1729)生
天明元年(1781)丑八月廿三日没
勘左衛門盈平
行年五十二歳
法名 霊明院智眞俊◎墨居士
当代は主として叔父孫七郎の後をうけ宝暦、明和、安永年度に亘り名主役を勤む。才人で然も理財にたけてゐたやうである。息定賢を江戸に遊学させ、医師にしたなど子弟教養のみちにも尽くした。
一、宝暦十一年(1761)江戸増上寺境内へ當村西樂寺を行寺に致し度しと申し込む。
時に大沼田新田よらも寺號、行寺等に付佳民が熟望して來たので三光院世話人に相談す。
一、宝暦十二年(1762)三月由ロ観昔堂再建に付金四両寄附。
一、明和五年(1768)五月代官伊奈半左衛門より長崎に和製龍脳座設置に付沙汰ありたり。
同時に寺社共猥に葵の紋章を乱用するの禁止ありたり。
一、代官伊那半左衛門勘定奉行に昇任し備前守と改称に付祝詞を呈したところニツ巴の麻上下の拝領に接す、
同時に背割羽織着用及御用堤灯使用を差許さる。
一、明和三年(1766)五月十五日、代官伊那半左衛門より真鍮銭吹立に付在来の並銭四文を以て真鍮銭一文と引替通用の旨
達しありたり。
一、明和五年(1768)十一月八日 圓乗院天蓋建立に付銀七百文寄附。
一、明和七年(1770)六月代官伊奈備前守より、強訴.徒党、逃散に付高札下る。
一、明和九年(1772)九月十四日 山ロ観音鐘鋳に付金二両寄附。外金参両。
一、安永四年(1775)二月狭山附近村々五十ケ村猪狩す。
一、安永六年(1777)三月 三光院へ金五給両寄附す。
一、安永九年(1780)三光院古梵鐘を廻り田峰藥師へ売り渡す。
一、安永十年(1781)辛丑二月三光院山号宅部山を輪王山と改称す。
三十六代
明和六年(1769)生
天保二年(1831)十月五日没
勘左衛門定賢
行年六十三歳
法名 藥寿院医徳定賢居士
当代は医を業とし名主役を勤め、天明、寛政、享和、文化、文政へと及んでゐた。江戸遊学時代は書家海澤田東江、歌人横田岱翁に師事し、帰郷後は風流韻事を中心に地方名士知識との交遊があつた。特に西多摩伊那大悲願寺住職恵寳比丘とは親交淺くなかったやうである。
化政の潮流の感化影響をうけて余裕ある家計の間に、茶の湯、生花をはじめ香道に至るまで一通り手をつけたのは吾々子孫の及ばぬ所である。大久保狭南に依囑して武野八景を撰定せしめたなど特記すべきである。然し歌道に対しては精進のあとは見えない。遺稿を閲してもこれといふ作のないのは遺憾であるが、歌を交遊の具に供してゐた点からしては止むをえぬ事と思ふ。後年痔疾のために苦しみ、折角西丸御用掛の推墾にあづからんとしたのを果さず早逝したのは残念と云へば残念である。
一、天明四年(1784)五月八日代官飯塚伊兵衛より、悪疫流行に付施藥の触出づ。この度の施方法は享保五年當時に準ず。
一、天明五年(1785)十月十五日代官巡観に付達あり。
一、同年二月には杉本持稻荷を正一位に安鎭す。
一、天明八年(1788)代官飯塚常之丞より田螺を袷ひおき凶年に備ふべき旨の達ありたり。
一、寛政三年(1791)内堀霊光山常覚院へ仁王経と十二天を寄附す。
一、寛政四年(1792)二月八日朝中堂焼失。同五年八月晦日庫裡建立。
一、寛政四年(1792)六月十五日氷川紳社へ氏子中より織奉納。東江源鱗の筆、下書當家に所藏す。
一、享和三年(1803)七月尾州家鷹合札下附。
一、享和四年(1804)三月氷川神社石坂建立。
一、文化四年(1807)正月廿六日堀口丸峰堂焼失に付寄附、同年九月再建す。
一、文化六年(1809)十月円乗院本堂建替入佛供養に寄附す。同八年四月廻り田谷其他石橋建立に付寄附す。、
一、文政四年(1821)三月十ニ日西樂庵地藏堂焼失。
一、文政五年(1822)凶作に付代官平岩右膳へ願出で手當金並に種籾代借用す。
一、文政十年(1827)家什たる神代交字及び古今集を大悲願寺へ庫納す。
一、文政十年(1827)改革之砌所澤村組合を四拾八ケ村とし、寄場惣代役を勤む。
一、当代文化年度湯殿山へ参拝、木像不動尊一体寄進す。
三十七代
文化十年(1827)二月二十八日生
明治二十一年(1888)二月廿日没残
平重郎林志
行年七十六
法名 専心院誠誉道徳林志居士
当代は入間郡吾妻村粂平塚彦四郎の男に生れ、幼名榮三郎叉ば太一郎と呼んだが、当家先代定賢の養子となり後平重郎林志と改め、家督を相続すると共に勘左衛門とも称したが、主として平重郎林志を用ゐた。
徳川末期の混沌たる時代に在り、内外共に波瀾多い生涯を経て來たものである。彰義隊が上野の雨中に乱闘の揚句、もろくも一敗地にまみれた賛嘆たる光景を目撃し、帰宅の後、もう徳川の蓮命もこれでつきたと男泣きに泣いたといふ話を祖母から聞かされたが、さうした一種の感激性をもつてゐただけに、家政に対してはあまりに意を用ゐなかったやうであるが、晩年に及んで、武藏野の名勝旧跡の探究に没頭し、狭山の栞外二十数巻余の稿を遺したに対しては、児孫としての吾々は敬意を表さねばならぬと思ふ。現今荻山の旧嶺が、たえず破壊変態せらるるに至り、ありし日の勝跡殆んどあとを絶たんとするに當り、遺稿は實に貴重なる記録として光彩を放つてきたわけである。友人高橋源一郎氏が近業として武藏野歴史地理を発刊するに際し、その資料として用ゐられたなど、故人としても余榮ありと云ふぺきである。恨むところは学究的肌合がかけ、所謂趣味本位に筆をうこかした点であるが、晩年の余業としては止むをえない次第である。
狭山の栞は何れ単行本として出版しやうとは思つてゐるが、相当の大仕事であるから自分一代のうちに果さるるかどうかが疑問である。
一、天保三年(1832)三月五人組制度定めらる。(代官山本大膳)
一、同年清水村百姓一揆起り地頭淺井家へ門訴の大事件出來せし時、淺井家へ出向き悉く鎭静す。
一、同年十一月氷川神社拝殿兼上家建立成就す。
一、天保八年(1837)凶作に際し世上時疫流行に付代官山本大膳より、貧民に施藥ありたり。同年十一月代官の巡覗ありたり。
一、天保十四年(1843)正月七日出立伊勢参宮。
一、弘化三年(1846)二月失火し土藏一棟を残したるのみ全焼。
一、弘化四年(1847)七月西丸大普譜に付献金二両弐分二朱。
一、嘉永六年(1853)五月米艦品川沖に現はるに依り、種々の達しに接す。
同年十月台場新築により莫大の入費につき六両献金(但し三ケ年に分納)
一、安政二年(1855)十月二日江戸大地震に付代官江川太郎左衛門の本所の邸宅大破せしに依り、同三日人足をたて駈けつく。
一、安政三年(1856)八月廿五日辰已風にて芝新銭座の代官江川邸大破損、内野杢左衛門同道見舞す。
一、安政四年(1857)三月羽村樋ノ口見分として老中阿部伊勢守初め、若年寄、寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目付及び目付、
徒目付等出張に付出勤茶番をす。
一、安政五年(1858)三月五日 細川越中守領所となる。相州大津台場警衛に際し入足差配役を命ぜられ苗字帯刀を許さる。
一、安政六年(1859)十月江戸城本丸焼失に付き献金(十四代將軍家茂公の時)
一、慶応元年(1865)五月將軍家茂公長州征伐に出発に付き金拾五両献金す。同二年八両、外に鐵砲繕代金一両二分。
一、文久元年(1861)十月十四日、孝明天王皇女和宮御降嫁に付き中仙道大宮宿に人馬助郷のため出張。
一、文久二年(1862)農兵の制代官所に設けられ取立に接す。
一、文久四年(1864)三光院本堂庫裡鐘楼悉く再建。
一、慶応二年(1866)六月十六日、飯能辺より打ち壊し初まり、所澤より諸所に横行す。
一、明治元年(1868)五月官軍下向に付中仙道大宮宿をはじめ、東海道、甲州街道に出動す。
一、万延元年(1860)五月五日府中六所明紳に永代神灯奉納す。同年六月富士登山。
一、明治二年(1869)三光院へ眞鍮花瓶一封及大燭台及び金二両奉納。
一、明治七年(1874)、狭山藥師三十七ケ所、地藏十ケ所、弥陀十ニケ所詠歌奉納。
一、明治十四年(1881)、四國八十八ケ所、坂東三十三ケ所、新四國八十八ケ所西國三十三ケ所、秩父三十四ケ所、
狭山三十三ケ所、以上納経。
一、明治四年(1871)五月、山中小左衛門、内堀七郎右衛門両家は当家と由緒深き関係ありしに依り同姓とし、
十一月二十五日地頭、組頭を呼び披露す。
三十八代
天保七年(1836)十一月五日生
大正二年(1913)二月二十日没
勘左衛門宣智
行年七十八歳
法名 法興院積善徳光宜智居士
当代は嘉永から明治の初期過ぎまで名主役副戸長役をつとめたが、王政維新に直面しただけに、家事を顧る暇もなく村事に奔走したので、財政的にも非常な窮迫を來し、明治廿一年頂には殆んど其の極に達したやうであるが、性來の温順恭謙な行爲は或る意味に於いての善根を残したとも云へる。
殊に崇佛の念は父の癖をうけて深いやうであつた。早くから母を失ひ、多くの弟妹の間に交つて、人間としての辛酸は可成嘗めさせたらしいが、さうした体験によつてひがみいぢけるやうな男ではなかった。貧しい生活の間にも孫児としての私らの教養に心を傾けてゐてくれたのは感謝しておかねばならない。然しそれに酬ゆべき節も到來せず、轗軻不遇(かんか)に世を去らしめたのをこよない悲みとはする。且っ本書を編成するに當り、祖先各代の公私略記を載するにつき、当代が古書類を調査摘録しておいてくれたため一方ならぬ利便をえたに封して、満腔の感謝を地下の霊に奉るに吝でない事を明記しておく。
一、文久二年(1862)代官江川太郎左衛門支配下に農兵に取立てらる。砲術銃鎗散兵卒業。
一,慶応二年(1866)六月十六日打壊しはじまりしに付農兵として出張鎭静の任に当たる。
一、慶応三年(1867)六月十三日代官江川太郎左衙門観音崎台場其他敷ケ所警備に付出動す。
一、慶応四年(1868)官軍下向に付東海道川崎宿へ金穀を上納す。同年四月十一日江戸城を官軍に引渡す。
是より明治と改元す。同年十月十三日陛下江戸城へ安着、十一月六日江戸市中へ酒を賜はる。天盃祭ある。
一、明治元年(1868)六月社寺混淆不相成との達により、当村にては同年十二月四日円乗院弟子秀淳を服飾後藤兵庫と改名し、
天狗社、愛宕社、神明社、稲荷社等の神職の義願出で指令を受く。
一、明治二年(1869)六月十七日韮山縣となる。
一、明治二年(1869)四月江戸を東京と改む。東京府を置く。
一、明治三年(1870)三月四日韮山県第一区小川村寄場を親村と定む。
一、明治四年(1871)十二月廿日より神奈川県管轄となる。県令陸奥宗光。但外務大臣兼任。
一、明治五年(1872) 大江卓神奈川縣令となる。
一、明治四年(1871)六月五日平民戸籍の改正、名字を用ふる事となり、同年國幣社県社定まる。
同年十月郷学校設置の義に付小川村に集合決議す。
一、明治五年(1872)三月二日庄屋、名主年寄を廃し、戸長、副戸長と改称す。
同年四月(1871)二日穢多非人の称を廃す。同年四月廿五日僧侶の肉食妻帯蓋髪勝手の達いづ。
同年五月七日より東京横浜間汽車開通、同年六月郵便の法確定。
同年八月十一日裁判所設置せらる。
同年十一月十九日暦改正。
一、明治六年(1873)徴兵令定めらる。(陸軍大輔山縣狂介)同年二月印紙発行。
同年郷校喝力学校(学舎かつりきがくしゃ)、研精学校を分離し外に一校を設立。円乗院、三光院を学舎に宛つ。
一、朋治八年(1875)後ケ谷村宅部村を合併して狭山村と改構の義願出づ。同年四月副戸長となる。六月狭山村改称の指令下る。
一、明治九年(1876)神奈川県令中島信行に代り野村靖任命せらる、同年九月病氣のため副戸長辞任。
一、明治十年(1877)二月廿二日研精、喝力学校合併高狭学校と改称生徒登狡す。
一、明治十二年(1879)七月廿四日役場に於て村会議員を選挙す。
一、明治十一年(1878)区画改正、区務所扱所を廃し郡長をおく。北多摩郡々役役所となる。
一、明治十二年(1879)三月二十七日県会議員選挙令発布せらる。
一、明治十三年(1880)村衛生委員となる。
一、明治十四年(1881)村社神官撰定の達ありたり。
一、明治十六年(1883)伊勢参宮、高野山、金比羅登山す。
一、明治十七年(1884)七月五日より高木村外五ケ村組合役場となる。
一、明治十八年(1885)八月十一日村会議員となる。同年野村靖県令辞任、沖守固任命せらる。
同年十二月十八日円乗院本堂庫裏焼失す。
一、明治二十六年(1893)四月廿六日 砂川村登記所開始に付開業式に寄附す。
三十九代
慶応元年(1865)七月十一日生
昭和五年(1930)八月廿日没
想太郎正孝
行年六十六歳
法名 清(法)光院想覚静心居士
当家衰退その極に達した当時に於て、辛くも支持した薄倖の主であつたと云ふてよい。家運の挽回に汲々としてみたものの恵まれぬ天分と資性では、なすことも一つとして功を奏したものはなかつた。殊に数百年來祖先伝来の家郷がいかに都民永遠の生の保◎証のためとは云へ、全くに滅亡させられてしまつたなど嘆くにも嘆かれぬ状態となつてしまつた。そは決して当代の罪ではない、時代がもたらした禍に過ぎぬとあきらめればそれまでであるが、人間が衰える時は家運までが全く尽きて了ふといふ恐しさをはじめて知つたのである。
当代としては別に残した仕事もなく、唯に桑海の変に遭遇した不運児の記録をとどめるに過ぎない。
東京市貯水池用として殆んど掠奪されたも同然の故山の山林宅地田畑のすべてを一厘でも高値に売りつけようと努力した移転当時の記録などを今さら載する勇氣は全然ない。数百年墳墓の地として伝来された寂しいながらの我等の郷土は、永遠に亡されてしまつたのである。ありし日のすべては一切碧浪の底の藻屑と滑え、切々たる哀歌に代るべき松風のこゑのみ多情多感の膓をたつよすがとなるに過ぎない。稿を当代にとどめて終らしめんとするにのぞみ組先の遺霊が啾々として四辺に群◎叫する様な氣がしてならぬのである。吁。
附記
貯水池問題に関する詳細の記述は単に参考として調査しておいたが、見るさへ胸がはうさけるやうな氣がするので、一切をすて、ここには載せぬ事とした。
四十代
寛一
明治二十一年(1888)十月一日生
昭和六年(1931)十月一日印刷
【非売品】
昭和六年十月五日発行
〔代々のかがみ奥付〕
東京府豊多摩郡渋谷町櫻ケ丘九十一番地
編集兼発行者 杉本寛一
印刷者
東京府豊多摩郡渋谷町丹後三十三番地
島 喜次郎
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東京府豊多摩郡渋谷町丹後三十三番地
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電話 青山六六一四番