入間市
粕谷義三
日本憲政史に名を残す・・・粕谷義三
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粕谷義三(1866~1930)は、大正12年(1923)から昭和2年(1927)まで衆議院議長を勤めた政治家です。義三の政治信条は終始、不偏不党、公平無私を旨とし、憲政史上初めて全会一致で議長に就任しました。
義三は、藤沢村の豪農商、橋本要作・とりの八男八女の長男に生まれ、24歳の時に粕谷家の入り婿となり、姓を粕谷と改名しました。18歳から扇町屋村連合戸長役場筆生、川越の入間郡役所御用掛を勤め、一方で、社会変革を標榜して自由民権運動に傾倒しました。明治19年(1886)19歳の時、民権活動家の盟友福田友作らの誘いを受けて米国留学を志して渡米、サンフランシスコでの2年余りの大学入学準備を経て、ミシガン大学法律学部3年次編入学試験に合格して、政治学や財政経済学を学びました。また、民権派留学生達と邦字新聞の編集発行などを通じて、日本社会の改革を主張しました。同23年、24歳で帰国して、板垣退助らの自由新聞社の主筆として活躍しました。のち新聞社は内部の対立で廃刊して帰郷、同25年、政界への足掛かりとして26歳の若さで県会議員に初当選し、以後4回当選を重ねました。任期中の同29年には副議長に就任しました。県会議員時代は特に教育の振興に力を注ぎ、現川越高校や春日部高校の設置実現に貢献しました。同31年、31歳で衆議院議員となり、以後、苦杯を喫することもありましたが、12回の当選しました。大正9年(1920)、53歳の時に副議長、同12年議長に就任し、以後4年務めました。議長の就任に際しては、議会運営の公平を期するために党籍を離脱しています。
能書家としても知られ、恩師島村孝司から贈られた「竹堂」を号して、多くの揮毫をしています。市内には義三の碑文や筆跡が多く残されています。
入間市史p716