入間市史
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第四節中世の村落
一 古代末期i平安中・後期i
金子氏゜宮寺広大な平野をもち、中央から遠い関東地方は、比較的早-から荘官や開発領、王でしかも嚢した
氏・加治氏武士票誕生した・それを証明するの鍛.醗の乱(九三五先四〇)である。入間市域は、系図
たん
によると=○○年の初め頃に武蔵七党の村山党が分家して金子と宮寺に、丹党の一派が野田の加治に土着して、
みようじみようじ
地名を名字(苗字)とし開発領主となったと思われる。
いえのこ
ろりつとひつ
もちろん系図や軍記物に記された武人だけがいたわけではなく、戦時には家子.郎等などの家来や農民から選ば
れ超瀧枷また平時にはかれらの生活をささえる農耕を営む多くの農民が背後にいた。名のある武士の館を中心にし
て、市域では、古代末、平安中期頃から金子・宮寺・仏子(金子近範)・野田(加治氏)の四カ所に"むら"が存在し
たということができよう。
二 中世前期-鎌倉・南北朝期ー
金子郷と阿須郷
建久三年三九三に鎌幕府ができてからを一般に中世とよび、蒔的に平和がおとずれて、郷土
は大きな異変もなく継続発展したと思われる。記録の上で最初に出てくる地名は「金子郷」である。
ひよう
『吾妻鐘の記事によると、墓三年(=1110)六月九日の朝八時頃、「金子郷」に雷雨のなかに電がまじって降っ
たという異変のことを記しているので、この時幕府では「金子郷」を一つの地域として認めていたということにな
るのではないか。
こう
ところでこの"郷"とはどういうものであろうか。律令制度の最小行政単位は里として五〇戸を標準としたが、
まもなく里を郷の名称に変更したとされる。十世紀の『倭名類聚抄』には入間郡に八つの郷が記されているが、律
令制が崩れてからは郷の名はあってもその内容や範囲はあいまいになったと考えられている。したがってこの金子
郷も、この時期では金子氏の居館(木蓮寺)を中心にした加治丘陵の南、霞川(桂川)の流域にひろがる漠然とした
"むら"というほかはないといわねばなるまい。p305
くだしぶみ
次に古文書によると、鎌倉中期の弘安五年二二八二)七月十六日付、将軍から金子頼広への下文(中世・金石文編[五〇頁)
あずホ
の中に、「金子郷・阿須郷」の領有を認められたことがみえ、また南北朝時代の永和五年(一三七九・天授五年)二月
十六日付の金子家重の譲状写(中世・金石文編一五二頁)にも「かねここう」(金子郷)がみえている。この文書には、譲られた地
点の範囲もこまかく記されているので、この小地名が確認できれば金子郷の姿の一部がより旦ハ体的になってくる。
なお阿須郷の阿須は現在飯能市に属し、金子氏館跡のある木蓮寺から加治丘陵を越えた北北東約二・五槙の入間川
右岸にある。また、阿須の東方同じく下流二・五瞭の地に、金子近範の居館と菩提寺があったと伝える入間市仏子
の広町がある。広町は阿須に近いことから「阿須郷」に含める考え方と、霞川流域ではないが「金子郷」に入れる
べきだとする推測も成り立つ。
加治郷と宮加治郷については治承五年(=八一)十一月十一日付の源頼朝が新田義重に与えた下文(碑泄締魂
寺郷縄竹村師庫頬劃日)に「下武蔵国加治郷百姓等」とある。これには偽文書説があるが、もし偽文書だとして
も、作られた時期によっては「加治郷」の存在は頭から否定することはできないのではなかろうか。
宮寺については、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)の重臣であった北畠親房が、常陸の小田城(茨城県つくば市)の小
こうのもろふゆ
田治久を頼って足利方北朝の兵と戦っているとき、足利方の大将高師冬は将軍足利義詮の仰せで、暦応二年(一三