八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807)

八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807)

荒れる村

天明の飢饉以降、1700年代の後半になると村は様変わりしたようです。
借金で困ってどうしても耕地を手放さなくてはならなくなる農民が出てきます。すると、いつの間にかその土地が村の有力者のもとに集まり「質地地主」が現れました。一方で、耕地を失った農民はやむなく、潰百姓、日雇、出稼、職人、無宿人などとなります。

 とくに無宿者となった浮浪人層の増大は、不穏勢力となって村に混乱をもたらせてきました。村は多くがそうであったように、幕府の直轄領、旗本の知行所、寺社領などが複雑に入り組んでいました。無宿、悪党どもは追われるとそれぞれの支配地に逃げ込んで、調べも逮捕もうまく行きませんでした。


江戸時代入り乱れる領主 クリックで大

 東大和市域の村々でも、幕府領、旗本領、寺社領と入り交じっていました。仮に事件が旗本領で起こったとすると、その対応は旗本に求められます。現実には旗本も村もそれは出来ませんでした。
 もう一の問題は、領地の入り組です。高木村の例では、下記図のような状況でした。どこで事件が起こったかによって、処理の責任者は旗本が代官かに分かれます。実態として入り込みが激しく、対応は極めて難しかったようです。


高木村の天領、私領の入り乱れ状況 クリックで大

 図中の江戸街道、図にはありませんが下部にある青梅街道(現・桜街道)を長脇差しを腰にした無宿人が往来しました。
 1700年代の記録がないのが残念で、少し時代が下がりますが武蔵村山市に残る指田日記に
・天保5年(1834)3月24日、夜、三ツ木村与右衛門と末子両人、八王子より帰路、残堀の原において盗賊のために疵を負う
・同1121日、山王前文庫蔵(ぶんこぐら)風窓を破り、其所より盗賊這いり財を盗む
 など、不穏な記事が現れてきます。 

 関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく・でやく 八州廻り)の設置

 村の治安の乱れは幕府にとっても支配体制に影響を及ぼしました。ここに、新設されたのが関東取締出役(八州廻り)です。文化2年(1805)でした。当時の関東八か国、相模(さがみ)・武蔵(むさし)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)に置かれました。その役割などについて、大和町史は次のように記します。

夢中で読んだ物語です。
獅子の剣は川越が舞台でした。
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「八州取締出役は関東農村を廻村し誰の領地であろうとも入り込んで行き、すでに形骸化した領主支配に代って、警察的仕事に従った。出役の取締りのぎびしさは、「八州が来た」と言えぽ泣いている子も黙ったと語りったえられている。また取締出役は、しばしば土地の博徒や、ならず者を、案内と称して手先きに使ったが、これらの手先きは、出役の権威を背景に、良民を苦しめることが多かった。

 後に、犯罪人を捜索し、たい捕するにとどまらず、風俗取締りから産業統制など、その取締りは村の生活のあらゆる部面に及んだ。」(『大和町史』p259)
 八州廻りは複雑に入り込む領主と領地のいかんに関わらず活動できる特権が与えられました。勘定奉行に直属しました。

浪人取締組合の設置(文化4年・1807)

 その2年後の文化4年(1807)です。早くも、八州廻りの制度を取り入れたのでしょう、狭山丘陵南麓に「浪人取締組合」が結成されました。具体的な資料は文政里正日誌に記録されていますが、まだ出版されていません。幸いなことに、『東大和市史』にその一面が紹介されています。

 「次いで文化四年(一八〇七)の「浪人月行事相定之事」によると、浪人躰(てい)のものが数多く村むらを俳徊(はいかい)し、合力銭をねだりとるので村むらは難儀をしている。二十一か村で組合を結成し、月行事を決めて、浪人一人につき八文を出すこととし、それ以上は決して出さないこと、彼らを宿泊させないことを定めている。本文には二十一か村とあるが、村名が判明するのは十五か村のみである。」『東大和市史』(p195)

 21か村で結成されたとしますが、次の15か村の名が残されています。
 ・廻り田村、
 ・後ヶ谷村、宅部村、清水村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋久保村、
 ・中藤村、横田村、三ツ木村、岸村、
 ・殿ヶ谷村、石畑村、箱根ヶ崎村


 狭山丘陵南麓の村がほとんど占められていることに注目です。広域行政の貴重な経験になったと思われます。そして、これらの組合村の積み重ねが、やがて文政 12年(1829 )3月の「文政の改革組合村」の形成へと広がって行きました。次に続けます。

(2018.09.14.記)




にうけ負わせ、この組合村単位に取締法令の示達徹底、警備体制の強化、さらに農間余業の調査、職人の手間賃の統制など、治安の維持・警備の強化のみならず、幕府の一元的な支配の下部組織として整備していった。また関東取締出役と豪農層とが提携して農村維持強化につとめた点も見逃すことのできない特色であった。

文政改革のなかで幕府は本百姓の回復をはかった。近頃小前百姓の末端の者まで心得違いをして農業を怠り商売を専らにし、そのため田畑が手余り地となり高持百姓は小作する者もなく困惑しているので、農家で新たに商売を始める者は勿論、これまで商売をやっていた者も追々止めるよう心がけなくてはならない、と諭したのである。

大和町史p259

関東取締出役の設置

農村の変化は、もうこれまでのような支配体制では、十分に効果を上げることが出来なくなった。
文化二年(一八〇五)に関東取締出役が設置された。これは関東一円を、天領、私領の区別なく、警察的取締りに当る幕
府の役人である。関東八州の取締りに当ったので略称して八州取締りといわれた。八州取締出役は関東農村を廻村し誰の
領地であろうとも入り込んで行き、すでに形骸化した領主支配に代って、警察的仕事に従った。出役の取締りのぎびしさ
は、「八州が来た」と言えぽ泣いている子も黙ったと語りったえられている。また取締出役は、しばしば土地の博徒や、な
らず者を、案内と称して手先きに使ったが、これらの手先きは、出役の権威を背景に、良民を苦しめることが多かった。
後に関東取締出役は、犯罪人を捜索し、たい捕するにとどまらず、風俗取締りから産業統制など、その取締りは村の生
活の、あらゆる部面に及んだ。こうして関東取締出役の設置によって、地頭は、ますます、領主としての権威が薄らぎ、
ただ年貢を徴収するだけの、完全に寄生的な存在になり終った。

組合村の設定

文政十年(一八二七)幕府は関東一円の農村を、天領であろうと私領であろうと、その領主の違いに
関係なく、近隣の村々四、五〇力村を一まとめとして組合村を作らせた。
この制度は警察的取締りをするのに、村自体の力を利用するものであり、犯罪人を捕えた場合に、役人が村方でそれを
取調べる費用や、犯罪人を送りとどける費用は、
無宿は組合村々総高割
有宿は人別の村方
で負担し、すべて「村入用が多くかからぬように、手軽るに取はからう」ことを名目としたものであった。
九月になると、この地方でも組合が設定された。親村は所沢村で、この地方の五九力村を大組合とし、更にこれを小さ
なグループに分けて、これを小組合とした。大和町域の旧村は、はじめ第21表の一四力村で組合を作るように願出た。