八幡谷戸遺跡
⑦八幡谷戸遺跡
八幡谷戸遺跡は、奈良橋の八幡神社の境内付近が中心となる遺跡で、現在の郷土博物館の北側に延びる台地上にある。狭山丘陵南麓の舌状台地に立地するという点では、市内の同時期の多くの遺跡と共通した特徴を示している。
一九五五年(昭和三十)ごろ、南に延びる舌状台地の先端部で大規模な土砂の採取が行われた。この作業中に、縄文土器の破片が大量に発見され、そのほか打製石斧が数十点、磨製石斧一点、石鏃も十数点出土するなど、この場所にある程度の規模の遺跡があることが知られるようになった。
その後、道路の拡幅の際には住居の炉跡らしきものが数か所発見され、さらに八幡神社社殿の裏手の木の根元から二点の大形槍先形尖頭器が発見されるなど、注目を集めるようになった。
一九六一年(昭和三十六)、『大和町史』編さんのため市内の遺跡調査が行われ、八幡谷戸遺跡でもその一環としての発掘調査が実施された。
この時の調査では、まず神社境内へ入る道路の断面に竪穴住居跡の落ち込みを発見している。そして集会所(社務所)の西側に設定した試掘坑で、住居跡を検出している。しかもそれは二軒の竪穴住居跡が重複した状態で発見された。そのうち新しい方の住居跡については、大きさの確定まではできなかったが、古い方については、長径三・五㍍ほどの楕円形の比較的小さな住居跡であった。住居内からの遺物の出土は余り多くなく、周辺から見つかった土器などから、加曽利E式土器の時代、縄文時代中期の末ごろのものと考えられている。
100
その後都市化の波の中で、市内の埋蔵文化財の確認調査が行われ、一九七八年(昭和五十三)再び八幡谷戸遺跡の調査が行われた。神社の社殿北側の雑木林の中や、参道の周辺など合計一一か所の試掘坑を設定し、遺跡の範囲や性格を追求した。その結果、神社の北側は遺物が余り発見されず、遺跡の中心は神社より南にあることが予想された。そして参道の東側に設けた試掘坑からは、大量の土器とたいらな石で囲まれた炉とつぶれた土器ともに、竪穴住居跡が発見された。直径およそ五㍍ほどの住居跡の中央には石で囲われた大形の炉が設けられ、屋根をかけるための柱を立てた穴も七本分発見された。出土した土器は、一九六一年の調査の時と同じく、ほとんどが加曽利E式土器だった。また土器とともに発見された打製石斧は一七〇本にものぼり、ひとつの住居跡から見つかる量としては異常な多さといえる。石斧の製作に関連した遺跡だったという見方もあるが、この時期の遺跡では一般的に石斧の量が増える傾向が強いことから、住居跡の住人が残した遺物というよりは、住居が使われなくなってからそこに投げ込まれたものと考えた方が自然だろう。
また詳細な調査は行わなかったが、この住居と重複してほかに二軒の住居が存在することが確認されている。
この二回の発掘調査と、土取りの時に出土した多量の遺物から考えて、神社の南側から台地の先端にかけてが、八幡谷戸遺跡の中心となり、その中には数軒の竪穴住居跡があったものと思われる。
一九八五年(昭和六十)、遺跡のある台地の東斜面を通る道路の拡幅工事が計画された。一九七八年(昭和五十三)に発見された住居跡からも近く、遺跡の周縁部を切る形になることから、拡幅によって削られる部分の発掘調査が実施された。道路の西側、神社の参道から続く斜面からは、おびただしい量の土器片が出土した。その多くは細かい破片で、上方から流れ込んだものと思えたが、いくつかの大きな破片が焼けた土とともに発見された。さらに竪穴住居の壁と思われる段差もいくつか検出され、複数の住居跡の存在が明らかになったが、東側の大部分は斜面によって消滅しており、詳しい内容は明らかにできなかった。そして道路の西側の一角からも多量の遺物が集中して出土し、住居跡が検出された。やはり斜面の影響から東側の一部が失われていたが、住居跡の全体像をほぼ明らかにすることができた。住居中央には炉として使われた土器が埋め込まれており、この土器から加曽利E式土器の時代、つまり縄文時代中期の中ごろに作られた住居であることがわかった。床面には壁に沿って溝が掘り込まれ、外からの水の浸入に備えていた。
住居跡から発見された遺物は、土器の小さな破片とともに、やはり打製石斧が多い。土掘り具といわれるこの石器の量の多さは、この遺跡の大きな特徴である。このほか数点ではあるが、動物の皮をはぐ石匙や、弓矢の矢じりである石鏃も出土している。
この時の調査では、道路西側の斜面から集石と呼ばれる遺構が見つかっている。直径一㍍ほどの浅い穴の中に、小さな礫がびっしりと詰まったこの遺構は、焼いた石の熱を利用して、蒸し焼き料理をした場所である。
四〇年程前の土取り作業をきっかけにして、計三回行われたこれまでの発掘調査で、一〇軒以上の住居跡と、集石が一基発見されている。その分布を見ると、神社参道を中心として東西に存在し、細長い舌状台地の南部から南東部に広がっているようすがわかる。最も東の住居跡は台地の斜面中腹に位置し、尾根筋からは数㍍の比高差がある。斜面の傾斜もきつく、決して暮らしやすいとは思えない位置に住居が営まれていることは、それだけこの遺跡の人口が多かったと考えることもできる。ということは、土取りによって失われてしまった台地先端にも、かなりの数の住居跡があった可能性が高く、八幡谷戸遺跡は市内でも一番の大集落であったと考えることもできる。東大和市の縄文時代中期の中心的な遺跡として、狭山丘陵周辺での拠点的な集落としての性格も持っていたかもしれない。
p105