内野家

内野家

二蔵敷村の概要

 現在東大和市に属する蔵敷村は、狭山丘陵南斜面に位置し、南端を野火止用水が流れ、地内を青梅街道が通る。正徳年間(一七一一~一五)に隣接の奈良橋村から分村した。
 領主は、近世前期には旗本石川太郎右衛門であったが、享保十八年(一七三三)には幕府直轄領となり、安政五年(一八五八)二月から同六年三月までは一時的に熊本藩細川家の預り所となるが、再び幕府領となり明治維新となった。
 村高は二一五石余で、その大半が畑作地帯であった。
 家数は安永七年(一七七八)五十七軒、文化文政期(一八〇四~二九)五十五軒、慶応三年(一八六七)五十六軒で、ほとんど変化がみられない。
 人口は安永七年二五〇人、寛政期(一七八九~一八〇〇)二二〇人程度、文政元年(一八一八)は一九八人と最低となり、文政期後半から天保期(一八三〇~四四)にかけて二三〇人と回復し、以後幕末まで増加をたどり、慶応三年(一八六七)には三〇九人、明治七年(一八七四)には三三三人となった。
 家数は固定化していたが人口は変動した。
 近世後期になると、農間余業者が出現し、文政八年(一八二五)には炭薪渡世人(たんしんとせいにん)が十八人も存在した。安政二年(一八五五)の書上げによると「農間稼、男ハ樵炭焼、女ハ木綿糸より同機織、江戸並びに最寄市場江持出し稼仕候」「産物柿栗、江戸並びに最寄市場江持出し申候」とある(『里正日誌』第七巻一三七頁)。女性の農間稼して行われた木綿織物は村山絣(むらやまがすり)とよばれ、当地方の名産となった。

三幕末維新期の里正内野家の人たち

 内野家は、慶長七年(一六〇二)以前より、現在の蔵敷に居住していたといわれる。内野家が蔵敷村の里正、すなわち名主役に就任したのは寛延二年(一七四九)からである。同年の「武州多摩郡奈良橋村之内蔵敷新田明細帳」に名主杢左衛門が登場する。内野家は代々杢左衛門を通称とした。
 本書『里正日誌の世界』は、安政元年(一八五四)から明治二年(一八六九)までの幕末維新期の十五年間を対象としたが、この時期に関連し、活躍した里正杢左衛門は三人である。すなわち、孝秀・星峰・秀峰である。これら三人の簡単な紹介をしておきたい。

(一)内野杢左衛門、諱重泰、号孝秀

 内野家の菩提所である弁天墓地の墓碑によると、重泰は、寛政十一年(一七九九)に生れ、天保元年(一八三〇)三〇歳のときに父に代って里正となった。天保年中、父と相談して弁財天の村社を営む。安政三年(一八五六)五十七歳のとき、老を告げ、禄右衛門と改名し、文久三年(一八六三)正月二十日病没、時に享年六十五歳であった。里正として二十七年間活躍した。

(二)内野杢左衛門、諱敷隆、号星峰
 同じく墓碑によると、重泰の子敷隆は文政六年(一八二三)に生れ、初め福太郎と称した。安政四年(一八五七)三十五歳のとき、父の後を継ぎ杢左衛門と改名し、里正となる。同五年三十六歳のとき、蔵敷村が細川家の預り領となると、杢左衛門は細川家より苗字帯刀を許され、人足差配役を命ぜられる。
 文久三年(一八六三)四十一歳のとき、蔵敷村はじめ江川代官所支配の村々で農兵設置が実施されると、その世話役に任ぜられた。
 また所沢組合の小惣代名主として、組合内村々の訴訟の仲裁に入り、その多くを内済示談で解決した。
 明治五年(一八七二)名主制度の廃止により戸長となるが、すぐに子嘉一郎に譲った。
 明治十二年(一八七九)五十七歳頃より杢平と改名、同二十九年(一八九六)九月二十四日、七十四歳で死去した。
 明治二年(一八六九)十月韮山県役所から「寄特者」として褒美金二〇〇疋が与えられた。その表彰の文面には「蔵敷村名主杢左衛門、其方儀鰹寡孤独ヲ憫小前之もの共質素之風二教導し勧農心掛候趣寄特之事ニ候、依而御褒美被下之」とある(『里正日誌』十巻五〇二頁、村からの推薦文は同書四九二~四九三頁にある)。
 幕末維新期の十五年間に里正として活躍した杢左衛門は、この敷隆・星峰であった。

(三)内野杢左衛門、諱徳隆、号秀峰

 「里正日誌」の編者と目されている秀峰杢左衛門は、安政三年(一八五六)に敷隆の子として生れ、嘉一郎と命名された。
 明治三年(一八七〇)十五歳で名主見習となり、同五年(一八七二)十七歳で戸長となった。
 明治十二年(一八七九)二十三歳で第一期神奈川県会議員となり、同二十年(一八八七)まで八年間議員を勤めた。その間、同十三年二十四歳のとき国会期成同盟に参加し、翌十四年自治改進党にも参加した。この頃、新聞購読会を結成し、民権系の「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」「朝野新聞」などの回覧や民権運動の普及に努めた。
 明治二十二年(一八八九)三十三歳より昭和三年(一九二八)七十二歳まで高木村外五か村組合議員と大和村会議員に連続当選し、実に三十九年間にわたり公共に尽力したが、昭和五年(一九三〇)三月二日、七十四歳で死去した。

 内野家は文政八年(一八二五)には持高一〇石一斗二升、農間商いとして炭薪を販売した。安政五年(一八五八)からは質屋稼ぎを営み、元治元年(一八六四)には持高十五石七斗余となった。明治三年(一八七〇)には所持地も五町一反歩と村内では最大の地主であった。内野家は、秀峰杢左衛門以後は、玉峰禄太郎、悌二、秀治の各氏と連綿と今日に至っている。
(東大和市史資料編7里正日誌の世界p14~15)