千葉卓三郎
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略歴[編集]
1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村[1](現・宮城県栗原市志波姫、地図)[2]に仙台藩士である千葉宅之丞の子として生まれる。
11歳で仙台藩藩校・明倫養賢堂(地図)にて大槻磐渓に師事。
1868年(明治元年)、16歳にして戊辰戦争勃発。仙台藩士として出征、白河口の戦いに参加するも敗戦を経験する。
1872年(明治5年)、地元の水沢県に設けられたハリストス正教の祈祷所(後の金成ハリストス正教会、地図)[3]にて洗礼を受ける[4]。
その後、各地を遍歴し、医学・数学・ロシア語・国学・浄土真宗・儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学び、一時は商人に転向する。
1880年(明治13年)春より、神奈川県西多摩郡五日市町(現・東京都あきる野市)の勧能学校(地図)[5]に勤務。後に二代目校長となる。
1881年(明治14年)、私擬憲法「日本帝国憲法」を深沢権八らと起草したとされる。
1882年(明治15年)には持病の結核・胃病が悪化し、療養生活に入る。
1883年(明治16年)11月12日、治療の甲斐なく東京府本郷区(現・東京都文京区本郷)の竜岡病院にて死去。享年31。養女により、宮城県仙台区(現・宮城県仙台市青葉区)の北山五山・資福寺(地図)に葬られた。
1968年(昭和43年)、色川大吉・東京経済大学教授(仙台の(旧制)第二高等学校から東京帝国大学に進学)により、深沢家土蔵(地図)から私擬憲法「日本帝国憲法」が発見され[6][7]、五日市憲法と名づけられた。その後、同憲法起草地である東京都西多摩郡五日市町(現・あきる野市)の五日市中学校、出生地である宮城県栗原郡志波姫町(現・栗原市)、および墓地がある仙台市の資福寺[8]に記念碑が建立された[9]。