千葉卓三郎と東大和市

千葉卓三郎と東大和市

千葉卓三郎の生涯 相沢源七

p86
 この履歴書によると卓三郎は息軒の門を去って、再びキリスト教の門を叩く。フランス・カトリック宣教師ウイグルスに教えを乞う。このウイグルスへの接触が卓三郎を五日市に結びつけることとなる。ウイグルスは多摩地方と縁が深い宣教師で、明治八、九年ごろから八王子付近を盛んに布教して歩いていたところから、卓三郎もまた彼に従って多摩地方に足を踏み入れて行ったと考えられる。当時、北多摩郡砂川村には仙台藩出身の竹内寿定(貞)が砂川カトリック教会の会員として活躍しており、卓三郎はこの同藩出身者に会っているのではないかとも考えられている。

 竹内は仙台藩勇義隊士で砂川村塾の塾頭をしていた。色川教授は、卓三郎が五日市に来たのは明治八、九年頃のことであり、砂川教会を経て同郷の先輩永沼織之丞(勧能小学校長)のもとに出入りし始め、助教を勤めながら、この間しばしば上京しては、ウイグルスやマクレーの許で学んでいたのではないかと推定している(2)。

 何故、彼がカトリック宣教師に接近したかは、その間の事情は詳らかでない。
 
立川中央図書館レファレンス
明治4年頃、仙台藩出身の竹内寿貞の布教活動で、砂川村にカトリックが導入され、明治18年には、砂川1番の島田泰之進の敷地内に砂川教会聖堂が完成し、開堂式が行われた。聖堂は、聖トマス教会と命名された。しかし、この頃が教会の最盛期で以後次第に衰退に向かったようである。

戸倉物語 秋川谷の夜明け 石井道郎 p61~62
 
 横道にそれるが、ここで五日市憲法草案の作成経過についての私見を述べよう。従来、五日市憲法草案は千葉が五日市において、明治十四年の前半に書きあげたと推定されていた。千葉が十四年五月から九月頃にかけ、五日市を離れ、北多摩郡奈良橋村方面に滞在していたことは、彼の権八宛書翰で明白なので、その前に仕上げ、草案を懐に五日市を飛び出したと、私も思い込んでいた。ところが、どうやら五日市憲法草案の最後の仕上げ地は北多摩(おそらくは狭山村円乗院)ではないかと考えるようになった。

 理由の第一は五日市憲法草案に大量に採用されているポルトガル憲法条文が国会期成同盟の本部報に掲載され、卓三郎の目にふれたと推定される時期が十四年九月ということ(法政大学江村栄一教授の指摘)
 第二は同年七月頃卓三郎が土佐へ行き立志社を訪ねている形跡があること(憲法構想模索中と想像される)
 第三は草案の仕上げという精神の集中を必要とする仕事は小学校教員の片手間仕事では倒底出来得ず、卓三郎はその煩をさける為、五日市を離れたと推測されるからである。(もっとも、五日市の同志との交流はつづく)
 彼の五日市の住居は五日市町三二番地、隣家三三番地は鎌田屋(現存する)と呼ばれる家で、この家の本家は奈良橋村の豪農である。「先生、うちの本家には年頃の男の子が三人もいる。その家庭教師でもやったらー」と鎌田屋の主人が斡旋したとしても自然な成行ではないか。

 住居は奈良橋鎌田家からほど遠くない狭山村の円乗院の離れ(九月十五日付権八宛書翰)で、ここなら上京するのも便利だ、収入は減っても、取あえず糊口をしのげばよい。何より著述に集中できるのがありがたい。彼はポルトガル憲法等によって最後の仕上げを行った後、その草稿を権八に託して清書を依頼した、というのが私の判断である。

 卓三郎が草稿を仕上げて間もない秋十月、政府は突如国会開設を予約する詔勅を発布した。民権派の動きは抑えられ、民権運動のブームは去った。私擬憲法をもちより討議する予定だった十四年十月の国会期成同盟大会は自由党の結成会に変わった。またしても卓三郎はついていなかった。


千葉卓三郎と東大和
鳥谷


 千葉卓三郎の年表では、「明治14年(1881)1~6月?五日市憲法草案起草。6月五日市を去り、奈良橋村に住む」とあります。
 長い間私の疑問は千葉がどういう目的と伝で奈良橋村の鎌田家に来たのかということでした。
 それに応える情報が南街のKさんから寄せられ、五日市に住む人達からお話を聞けました。
 一人は、鎌田喜三郎氏の三男弥十氏(後に岸忠左衛門と名乗る)の孫、石井道郎氏。氏は、著書『戸倉物語』で.「五日市憲法草案の最後の仕上げ地は北多摩(おそらくは狭山村円乗院)ではないかと考えるようになった」と述べています.
 その理由は、「草案の仕上げと言う精神の集中を必要とする仕事は小学校教員の片手間仕事で到底出来ず、卓三郎はその煩わしさを避けるため、五日市を離れたと推測されるからである。彼の五日市の住居は五日市町32番地、隣家33番地は鎌田屋(現存する)と呼ばれる家で、この家の本家は奈良橋村の豪農である。「先生、うちの本家には年頃の男が3人もいる。その家庭教師でもやったらー」と鎌田屋の主人が斡旋したとしても自然ななりゆきではないか。

 住居は奈良橋鎌田家からほど遠くない狭山村の円乗院の離れ(深沢権八宛書簡)で、ここなら上京するのも便利だ、収入は減っても、とりあえず糊口をしのげばよい。何より著述に集中できる。・・・というのが私の判断である」。

 もう一人は、五日市町在住のK氏。「奈良橋の鎌田家が本家です。おじいさんが、千葉卓三郎の世話をしたとよく言っていました。具体的には判りませんが、警察も近くにありましたから何かとうるさかつたようです」と石井氏の判断を裏づける話をしてくださいました。


民衆憲法の創造 (人間の権利叢書 6) 単行本  – 1970/1 色川 大吉 (著)