千葉卓三郎五日市入村経過

千葉卓三郎五日市入村経過

五日市へ入村
 さて、こうした幅広い教養とさまざまな体験をつんできた英才が、この五日市という山村へ出入りするようになり、唯一の公立小学校勧能学校の助教として、さらには学芸講談会を中心とする在地の青年達の政治.学習運動の理論的指導者として、五日市の自由民権運動を大きく高揚させてきた。そしてこの燃え上るような運動のなかから注目される「五日市憲法草案」の起草事業を完成させたのである。では、千葉は五日市へいつ頃、なんの目的で、どのような手ずるで入村してきたのだろうか。

 まず、かれは長い放浪の不安定な生活を、なるべく早期に安定したものにしたかったにちがいない。すでに横浜山手でプロテスタントを学ぶかたわら、バラ塾で漢学を教授していたかれは教員として生活できる方策を探していた。そしてまず、五日市の隣村大久野東学校に助教として就任する。明治十年か十一年のはじめである。

 このころ、五日市には同じ仙台藩出身の永沼織之丞が勧能学校の初代校長、伊東道友が同訓導として、千葉吾一が戸倉学校にという具合に、同じ仙台人の仲間が教師になってて入りこんでいた。そんな関係から大久野に招聘され、勧能学校へスカウぎれたのかもしれない。永沼とのかかわりも、明治九年から一〇年にかけて干葉が接したカソリック教の人脈から糸がつながってくる。やはり同郷の先輩になる竹内寿貞がすでにそこで洗礼をうけ、北多摩郡砂川村(現立川市)に聖堂をたてるなど、多摩地区に積極的な布教活動を展開していた。同教のテストヴィート神父に導かれた青年たちが、南多摩郡元八王子(現八王子市)に聖マリア教会の仮聖堂をたてたのもこのころである。

 その竹内は戊辰戦争では勇義隊隊長をつとめ、敗北後は数年の下獄を経て上京し、永沼らと一緒に砂川村の豪農、砂川源五衛門の食客となり、村塾で青年子弟に撃剣・柔道などを教えていた経験があり、永沼とは知友であった。こうしたつながりから千葉自身も、明治八、九年頃から五日市に往来するようになり、永沼校長をはじめ深沢名生、権八親子や内山安兵衛らとも親交を深めるようになったのである。ここで深沢親子と邂逅したことはかれ自身の人生にとって大きなステップとなった。
(五日市町史p720)

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