千葉卓三郎履歴
相沢源七 千葉卓三郎の生涯p85
本籍 同県下栗原郡白幡村二百二を番地平民
千葉宅三郎 明治十四年四月二十八歳十ヶ月
従来官途二奉職致候事無之候
嘉永5年(1852)6月17日出生
嘉永6年(1853)ペリー来航
文久元年(1861)深沢権八出生
文久3年(1863)1月ヨリ明治元年(1868)2月二至ルマテ仙台二於テ大槻磐渓(仙台藩校養賢堂の学頭)二従ヒ業ヲ受ケ、
明治元年(1868)3月、奥州白河口で、政府対東北諸藩との遭遇戦、卓三郎は養賢堂の学徒兵として出陣、敗戦。戸倉物語p57 長沼33歳、千葉17歳
明治元年三月ヨリ九月二至ルマテ軍伍二入リ、
明治元年十一月ヨリ同二年八月マテ、松島二於テ石川桜所二従ヒ医学ヲ学ビ、
明治2年十月ヨリ同三年十一月マテ鍋島一郎二就キ皇学ヲ学ビ、
明治3年十二月ヨリ同四年四月マテ、桜井恭伯二就キ浄土真宗ヲ聞キ、
明治4年六月ヨリ同八年四月マテ東京駿河台二於テ魯人ニコライニ就キテギリシヤ教ヲ学ビ、兼テ魯学修メ
明治5年 頃、砂川村には、村のほぼ中央の五番に高野源兵衛の私塾が、東寄りの八番に村立の郷学「共同学舎」が設けられていた。
(立川市史下巻p1036)
永沼織之丞 砂川村の豪農が経営する村塾に招かれ、英語の外、撃剣柔道術を教えるようになった。(小説千葉卓三郎p28)
明治6年(1873)深沢権八 勧能学校入学 12歳
明治7年(1874)、2月から8月頃までの間投獄される。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p39)
明治8年(1875)、永沼織之丞 五日市の学校係に任命される。やがて五日市勧能学校(かんのう)の校長となる。(小説千葉卓三郎p29)
明治8年(1875) 5月ヨリ同九年二月マテ市ヶ谷二於テ安井息軒二従ヒ業ヲ受ケ、
明治9年(1876)四月ヨリ同十年一月マテ仏人ウィグロー二就キカトリック教ヲ学ビ(横浜 小説千葉卓三郎p31)
明治10年(1877)二月ヨリ六月マテ福田理軒二就キ洋算相修メ、
明治10年(1877)八月ヨリ同十二年十一月マテ横浜二於テ米人マグレー二就キ、
フロテスタントノ中ナルイピスコプァール・メソ・ヂストヲ相学ビ、
兼テ同校ノ原書生及米人ヂョン・パラノ原書生二漢学ヲ教授シ、
◎卓三郎の書いた履歴書によると、明治九、十年、仏人ヴィグローにカソリックを学ぶ、明治十年から十二年、米人マグレーにプロテスタ ントを学ぶとあるから、キリスト教との関係は続いているようである。続いているどころか、彼が教師として秋川谷に入りこんだ動機の 一つが、横浜の教会(?)で知り合った女性から、身を隠すためらしいのだ。この女性は卓三郎の妻と称していたという。
(石井道郎 戸倉物語p59)
◎ウイグルスは多摩地方と縁が深い宣教師で、明治八、九年ごろから八王子付近を盛んに布教して歩いていたところから、卓三郎もまた彼 に従って多摩地方に足を踏み入れて行ったと考えられる。当時、北多摩郡砂川村には仙台藩出身の竹内寿定(貞)が砂川カトリック教会 の会員として活躍しており、卓三郎はこの同藩出身者に会っているのではないかとも考えられている。
竹内は仙台藩勇義隊士で砂川村塾の塾頭をしていた。色川教授は、卓三郎が五日市に来たのは明治八、九年頃のことであり、砂川教会を 経て同郷の先輩永沼織之丞(勧能小学校長)のもとに出入りし始め、助教を勤めながら、この間しばしば上京しては、ウイグルスやマク レーの許で学んでいたのではないかと推定している(2)。
明治10年か11年のはじめ、五日市の隣村大久野東学校に助教として就任する。(五日市町史p720)
明治11年4月から12年1月ごろにかけて草花村の開明学舎に教員として在職していたことが確認されている。(秋川市史p1140)
明治12年(1879)十二月ヨリ同十三年四月マテ東京麹町二於テ商業二従事シ、
12年秋 四ッ谷伝馬町一丁目福田壱兵衛に寄留(起草者たちp17)
嚶鳴社 私擬憲法草案発表される。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p106)
五日市に学術演説会(後の学芸講談会)が生まれる。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p106)
明治13年(1880)四月下旬ヨリ武州西多摩郡五日市二滞在シ
い月17日 八王子に第十五嚶鳴社が設立される。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p106)(起草者たちp19)
明治14年(1881)1月18日、千葉卓三郎は長沼織之丞の後を受けて五日市勧能小学校の校長となる。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p111)
同書年表では明治13年(1880)10月18日、永沼織之丞東京に去る。卓三郎二代目校長に就任。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p135)
明治14年(1881)、自由民権運動の画期の年であった。
三月には大隈重信が国会開設意見書を提出、交詢社が私擬憲法創案を発表、
八月には立志社の「日本国国憲案」いわゆる植木枝盛案が完成、
一〇月には国会開設の詔勅がでて、自由党も結成された。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p106)
明治14年(1881)3月11日、白鳥恒松から手紙(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p72)
明治14年(1881) 3月27日、白鳥恒松から手紙(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p73)
明治14年(1881) 4月6日、白鳥恒松から手紙(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p74)
明治14年(1881) 5月6日、芋窪学術演説会
明治14年(1881) 5月15日、深沢権八に奈良橋村から手紙
明治14年(1881) 7月13日、深沢権八に奈良橋村から手紙
明治14年(1881) 7月14日、白鳥恒松から手紙(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p75)
明治14年(1881) 7月頃、卓三郎土佐へ行き立志社を訪ねる(石井道郎 戸倉物語p61)
明治14年(1881) 9月15日(推定)、深沢権八に奈良橋村から手紙 狭山円乗院に寓居(起草者たちp29)
明治14年(1881) 9月25日、狭山自由懇親会
明治14年(1881) 10月、政府が国会開設を約束する詔勅を発し、民権ブームに冷水を浴びせた。(石井道郎 戸倉物語p72)
明治14年(1881) 11月21日、奈良橋自由懇親会
明治15年(1882)6月、千葉卓三郎草津に転地療養(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p111)約2ヶ月(同書p135)
明治16年(1883)11月12日、治療の甲斐なく東京府本郷区(現・東京都文京区本郷)の竜岡病院にて死去。享年31。
色川は10月12日とする。(五日市憲法草案とその起草者たちp5)
明治16年(1883)11月11日、東京帝国大学附属病院にて宿痾のため死去。享年三十二歳であった。(相沢源七 千葉卓三郎の生涯p110)
略歴[編集]
1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村[1](現・宮城県栗原市志波姫、地図)[2]に仙台藩士である千葉宅之丞の子として生まれる。
11歳で仙台藩藩校・養賢堂(地図)にて大槻磐渓に師事。
1868年(明治元年)、16歳にして戊辰戦争勃発。仙台藩士として出征、白河口の戦いに参加するも敗戦を経験する。
1872年(明治5年)、地元の水沢県に設けられたハリストス正教の祈祷所(後の金成ハリストス正教会、地図)[3]にて洗礼を受ける[4]。
その後、各地を遍歴し、医学・数学・ロシア語・国学・浄土真宗・儒学・正教・カトリック・プロテスタントを学び、一時は商人に転向する。
1880年(明治13年)春より、神奈川県西多摩郡五日市町(現・東京都あきる野市)の勧能学校(地図)[5]に勤務。後に二代目校長となる。
1881年(明治14年)、私擬憲法「日本帝国憲法」を深沢権八らと起草したとされる。
1882年(明治15年)には持病の結核・胃病が悪化し、療養生活に入る。
1883年(明治16年)11月12日、治療の甲斐なく東京府本郷区(現・東京都文京区本郷)の竜岡病院にて死去。享年31。養女により、宮城県仙台区(現・宮城県仙台市青葉区)の北山五山・資福寺(地図)に葬られた。
1968年(昭和43年)、色川大吉・東京経済大学教授(仙台の(旧制)第二高等学校から東京帝国大学に進学)により、深沢家土蔵(地図)から私擬憲法「日本帝国憲法」が発見され[6][7]、五日市憲法と名づけられた。その後、同憲法起草地である東京都西多摩郡五日市町(現・あきる野市)の五日市中学校、出生地である宮城県栗原郡志波姫町(現・栗原市)、および墓地がある仙台市の資福寺[8]に記念碑が建立された[9]。