四ッ街道

四ッ街道

2011年7月23日
14:36

奈良橋庚申塚に祀られていた庚申塔の台石に、道しるべが刻まれている。台石正面「東江戸道」、台石右「北くわんおん道」台石左「南府中道」「西右 中藤 左青梅」とあり、建立された当時(享保16年・1731 資料編9では11年・1726)の道名がよくわかる。
 東、江戸道は九道の辻を経て田無、江戸へと向かった
 北、「山口観音」へ行く道で、八幡神社の東側を通り内堀から山口に抜けた
 南、府中道は青梅橋を通り府中の奈良橋道に繋がった
 西、右中藤は武蔵村山市中藤への道で、当時は広域道であったことがわかる。現在では4~50㍍ほどの距離を感ずる            が、当時はすぐ右に入ったのであろう。芋窪の「四街道」(よつかいどう)を通過し、ヨコ街道の名が同感できる。ヨコ街道の始点であったのだろう。
 左、青梅は最初の青梅街道=江戸街道を示す。

②四ツ街道

 いつの間にか四ツ街道というようになってしまったが、昔は「ヨッカイドウ」と言っていた、と土地の人はいう。ヨコカイドウの音便らしい。芋窪の寛永の水帳写しには正に「よこかいたうふち」と記されている。

 芋窪街道に沿った蓮華寺の南に立川行きのバス停がある。四ツ街道停留所である。そのすぐ南に少し変則的な四ツ辻があって西北隅に市内最大の庚申塔が建っている。この塔に添った東西の道があるが、この道を昔は横街道といったのである。東西の道だから自然な命名であろう。四ツ街道といわれるようになったのは、この四ツ辻からイメージされたものと想像される。

 西へ行けば武蔵村山市内で青梅街道に合流し、東へとれば蔵敷の三本杉へ出、さらにまた市内中央を通る青梅街道の南北の道へ続く。

(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp32)