地頭の配置(東大和市史p140~142)
1領主支配と村の成立
(1)領主と地域の村むら
①地頭の配置
天正十八年(一五九〇)八月、豊臣秀吉から関東の領国を与えられた徳川家康は、江戸城に入城した。家康は、江戸周辺に蔵入地(直轄領)を定め、一万石以上の家臣を領国の外縁部、一万石未満の家臣を江戸から一夜泊り(十里以内)の地に、それぞれ配置していった。これによって関東一円が徳川家康の支配の下に入ることになった。
文化・文政年間(一八一〇~二〇年代)に江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』によれば、家康が家臣を配置したころ、東大和市域は清水村、後ケ谷村、高木村、芋久保村、奈良橋村の五か村からなり、いずれも山口領に属していた。山口領は二十三か村からなり、多摩郡の北端に位置し、東は野方領、南は拝島領、西は三田領、北は入間郡にそれぞれ接していたのである。
市域の五か村には、いずれも地頭(旗本)が配置された。清水村の領主となった浅井九郎左衛門(七平)は、三河国額田郡の出身で、家康・秀忠に仕え、豊島郡に領地を得ていた。後ケ谷村は逸見四郎左衛門と溝口佐左衛門の二人が支配者となった。逸見は甲斐国の浪人で家康に仕官したものであり、溝口は伏見城の番をつとめたという。高木村と芋久保村の領主であった酒井兵左衛門実明(極之助)は、近江国鎌波の城主土肥近江守実秀の子であったが、落城後に家老の酒井姓を名のり、甲斐国武田家が没落したのちに家康に仕え、天正十九年に多摩郡に四五〇石を拝領したのである。その後酒井兵左衛門は、長男強蔵昌明に二五〇石を分け与えていた。
奈良橋村の領主であった石川太郎右衛門も家康に仕え、文禄元年(一五九二)(1>に三三〇石が与えられた。
その後市域の村むらがどのように変わっていったかわからないが、慶安年間(一六四〇年代)における市域の村むらの領主と知行高は表1のとおりである。
地頭は支配している村に住み、農民から年貢を取り立てるとともに地頭畑や地頭林を持ち、農業も営んでいた。また、地頭は領内の農民を道路や川の普請に夫役として徴発したり、地頭が江戸城に出て勤務するときに、農民を夫役として使い江戸に赴いたのである。さらに大坂の陣のとき、後ケ谷村の石井勘解由は逸見四郎左衛門に、芋久保村の神主石井出羽は酒井某に、それぞれ従って出陣したと伝えられている。(2)
②領主の変遷
寛永二年(一六二五)三月に地頭の江戸屋敷割が実施されると、知行地に住む地頭は知行地から離れ、江戸に住むようになっていった。
寛永二年(または同九年)、酒井極之助は墓所を高木村から江戸赤坂へ移動させた。
さらに、浅井九郎左衛門が延宝九年(一六八一)に清水村から小石川へ、元文五年(一七四〇)に石川太郎右衛門が奈良橋から市ケ谷へ、それぞれ墓所を移していたように、このころ市域の村むらに住んでいた地頭が江戸に屋敷を移し(3)ていったのだろう。
地頭が江戸に常住するようになると、これまで地頭が使用していた地頭畑や地頭屋敷、蔵屋敷は、村民の畑に変わった。後ケ谷村では蔵屋敷が無税地として検地帳に登録されていたが、元禄三年(一六九〇)には年貢地に高入れが行われていた。後ケ谷村の杉本にあった「陣屋跡」は後に村人の住居地となり、芋久保の「陣屋」は地頭酒井氏が住んでいたところであったが、地名を残すだ(4)けとなった。
慶安年間が過ぎると市域の村むらは、しだいに幕府領となっていった。
万治年間(一六五八~六〇)に奈良橋村の全部が幕府領となったのをはじめとして、延宝二年(一六七四)には後ケ谷村逸見四郎左衛門の知行分が幕府領になった。(5)
高木村と芋久保村の酒井強蔵知行地も幕府領となったが、その時期はわからない。酒井強蔵が元禄二年(一六八九)に幕府から処罰されているので、おそらくこのとき以降に高木・芋久保の両村にあった酒井強蔵知行分が幕府領となったのだろう。
享保二年(一七一七)に作成された「山根九万石地頭姓名高訳帳」によれば、高木村は酒井豊次郎知行所と石川伝兵衛代官所の支配地が一〇九石余ずつあり、芋久保村は二〇〇石が酒井豊次郎、三〇五石余が石川伝兵衛の支配地となっていた。
さらに後ケ谷村は溝口佐左衛門知行地が一六五石、石川伝兵衛代官所の支配地が二〇三石余であった。この後、後ケ谷村の溝口佐左衛門知行地が宅部村となったのだろう。幕府領となった後ケ谷村は、享保元年六月まで代官の交代が六回あった(表2参照)
幕府領となった市域の村むらの代官交代は、後ケ谷村と同様な経過をたどったのだろう。