多摩の自由民権運動
『多摩百年のあゆみ』
1 自由民権運動と地域
豪農民権家と村の自治
薩摩や長州などのごく限られた藩出身で政権を握っている明治藩閥政府に対して、幅広い国民の声を代議制を通して反映させるための国会開設や、近代国家の基本法ともいうべき憲法の制定、あるいは重税感のある地租の軽減、幕末期に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正、地方自治制の実現などを求めてさまざまな運動を展開したのが自由民権運動でした。
それは日本で最初の国民的規模の民主主義運動として歴史的評価をうけていますが、明治前期の神奈川県時代の多摩は、全国の中でもこの運動の先頭集団にいました。板垣退助、片岡健吉、植木枝盛などを輩出した自由民権発祥の地の高知県の旧士族層を中心とした運動とくらべて、横浜開港前後から経済的に成長してきた豪農層が担ったという点からいっても、多摩の民権運動は注目に価する動きを刻んでいます。
政治の中枢で一大消費都市の性格をもっていた江戸・東京ばかりでなく、生糸
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貿易を通して欧米諸国ともつながる開港地横浜に近接し、いわゆる「京浜の後背地」という地理的好条件にめぐまれた多摩は、幕末期から明治前期にかけて同じ農民でも豪農と呼ばれるクラスが各地に育ち、経済的分野以外の例えば文化、教育、宗教などでも頭角をあらわすようになりました。
かれらはまた、村にあっては行財政の中心的存在でしたので、村政担当者として政府が矢継早に出す新政策にとまどいながらも、その対応に積極的に取り組んでいきました。学制、徴兵令、地租改正条例と国民生活や地方行財政に密着する大改革が目白押しで、豪農層はその都度、上意下達の国政と村の実態との間に立って煩悶することになったのです。
このように近代国家へ脱皮するために国家という名で打ち出した新政策は、同時にまたその末端の担い手である地域の豪農層の「政治化への引き金」にもなりました。明治11年の郡区町村編制法や府県会規則などのいわゆる三新法は、こうした豪農層に地方自治の意識をより高める結果となりました。
神奈川県、とくに多摩にあっては「県議路線」ともいわれるように、それぞれの地域から選出された神奈川県議会議員が初期民権運動の指導的役割をはたしています。三多摩民権運動の最高指導者ともいわれる南多摩郡野津田村(現町田市)の石坂昌孝が初代神奈川県議会議長に選出された事実をみても、多摩の豪農層の実力は物心ともに高いといえましょう。
また北多摩郡では郡長や郡書記など郡吏が中心になって地方自治研究会のような学習組織「自治改進党」を誕生させ、「人民自治ノ精神」を養成し、「自主ノ権利」を拡充するために演説討論会を開催しています。この組織に参加した一四〇余名は、ほとんどが戸長や副戸長クラスで、郡と町村の行政組織が一体となって地方自治のあり方を模索しています。
このように、多摩の民権運動はこの運動の主たる担い手が、村内実力者、村政担当者、村の名望家層、郡長や県議などの行政や政治担当者などであったこともあって、必然的に地方自治や地域の課題、地域の活性化などに関心がよせられました。
自由平等な議論の場・結社
政治を変えるためには自分たちの「智識ヲ開達」することがまず必要だと認識した豪農層は、自由民権思想を共同学習する場を次々におこします。それらを「学習結社」とか「民権結社」と呼んでいますが、多摩にも明治11年から23年の国会が開設されるまでの13年間に六一社が誕生しました。多摩を除いた神奈川県全体で七三社、首都東京全体でも七八社ということからみても、学習への意気込みを感得できます。
最初に誕生した結社は、明治一一年に南多摩郡野津田村を中心とした数ヶ村の豪農ら二七名が発足させた「責善会」(せきぜんかい)です。18歳から58歳までの青壮老年の混成で、平均年齢32歳という年齢からみても村落社会の中で中核的なメンバー
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といえます。その目的には「社友相共ニ協力同力」して生き方に誤りのないようにすることがうたわれています。そのために「疑事ヲ討議シ」、「智識ヲ開達シ」、「産業ヲ振興」させることが肝要だとしています。ここには自由とか民権とかの言葉は一言もありませんが、自己研鑽と地域産業の振興こそが地域の発展につながると意識されています。
毎月第二日曜日の午前九時から午後四時までの七時間におよぶ例会での討論は民主的な規則が定められており、「親戚長幼尊卑ヲ論セス、過失ト視認シ或ハ該員ノ身上ニツキ忠告スヘキ事項アレハ、忌憚(きたん)ナク之ヲ縷述(るじゅつ)」するとあるように、なにものにも拘束されない自由な発言が保障されています。「親戚長幼尊卑」という旧来のルールから解放され、平等な立場で議論しあう新しいかたちの組織づくりがはじまりました。
北多摩郡選出の県議内野杢左衛門(蔵敷村、現東大和市)は、地方官会議を傍聴したり、浅草まで出向いて演説会を聞きにいったりして土台固めを着々と進めていました。また南多摩郡の若い民権青年村野常右衛門(野津田村)は、官僚的郡政を批判し郡吏公選の請願運動を展開し、郡下五〇余村に撤をとばしています。そこには郡吏の適否や郡務の得失こそが、われわれ「人民ノ安危」に直接かかわるのだという認識があり、民主的なルールで公選しようという自治の思想が育っています。
一方、西多摩郡では五日市に民権の芽が育っていることを新聞が伝えています
『東京横浜毎日新聞』
戸数300余戸、人口は1300人余りの小さな山あいの村落ではあるが、「人民の気風は漸く旧を捨て新に就かん」としている。例えば町会も郡書記や県議の指導で「議事の体裁も能く整備」されており、有志はすでに東京から民権派知識人を招聘して演説会を開く準備を進めているし、ハリストス正教会の信徒らは「耶蘇講会」を、小学校の教員たちは「茶談会」をはじめている。それに毎月五と十の日に開かれる市には二~三〇〇人もの商人たちが集まり、経済活動が活発に行われていて、村内には劇場まで建築中である。
これが新聞記者の見た明治13年2月の五日市の状況でした。
民権の成就は関東にあり
このように多摩三郡はそれぞれ別個な動きを示していましたが、明治13年12月、府中の高安寺で開催された「武蔵六郡懇親会」(一五〇余名参加)や、翌一四年一月に原町田村(現町田市)の吉田楼で開かれた「武相懇親会」(二〇三名参加)などを通して各地域の民権家たちは共通の認識を持つようになり、より明確なかたちで民権意識を高める政治学習運動を展開するようになります。武相懇親会に招かれた民権派ジャーナリスト末広重恭(鉄腸)は、当日二〇〇名以上の参加者を前に、「我ガ邦ノ民権ハ萌芽ヲ関西ニ発スト錐モ、之ヲ成就スル者ハ
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必ラス関東ニ在リ」といって鼓舞しましたが、それを受け止めるだけの土壌はすでに醸成していたのです。
明治14年11月、原町田村に拠点をおく多摩全体の民権勢力を結集した中心的結社「融貫社」が結成されました。県議はもちろんのこと、各村の戸長クラスや名望家がこぞって参加し、会員は一五〇名を越えています。その目的には「民権ヲ拡張シ、国民本分ノ権利義務ヲ講明シ、我国立憲政体ノ基礎ヲ確立」することがうたわれ、名実ともに民権結社として活動を開始しました。
さらに県下各地には支部を設置し、「学術ヲ講究スル」ことを目的とした講学会、講習所を別に設け、若い層の教育・育成をねらいとした義塾を開設するなど幅広い活動を目論みました。
また融貫社本社では社の機関誌を発行し、政談記録を社員に頒布することも企画されました。多摩各地に続々と結社が誕生するのも、あちこちで演説会、討論会、懇親会などが開催されるのも、多摩三郡の郡域を越えて組織された融貫社のような一大結社を通しての交流や刺激が推進力となりました。民権家たちが相互に交錯しあうところから狭い地域共同体がかかえている問題が各村の共通の問題であることを認識し、それがひいては郡→県→政府というラインにつながることも自覚します。その自覚を一層たかめるために、民権派ジャーナリストや知識人が一定の役割を果しましたが、基礎は個々の民権家たちの自己変革をともなう知的成長と、自分の足もとの地域を見る目を肥やすことでした。
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読書活動と新しい人間関係
そのもっとも顕著にあらわれた例が、西多摩郡五日市の運動です。明治13年に発足した「学芸講談会」の活動はめざましいものでした。翌一四年一二月に五日市に招かれた嚶鳴社員の波多野伝三郎は、八〇名近く集まった懇親会の席で会員たちの演説の論旨が「慷慨悲憤なる、其言論の雄弁痛快なる」のに驚き、どうしてかと尋ねました。すると「昨年より毎月三回宛、学術講談会を催ふし、智弁を闘はし」てきたので上達したのだと語ります。
こうしたしっかりした土台を固めて学芸講談会はスタートしました。
目的は「万般ノ学芸上二就テ講談演説或ハ討論」することと、その上で「各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮」させることで、毎月市のたつ五の日を例会としています。月に三回も開催され、奇数月に一回は「他ヨリ高尚ナル学士ヲ招シ」て講談演説をしてもらうことが規則にもられています。
では、この会では何を論議したのでしょうか。規則には、なんと「日本現今ノ政事法律ニ関スル事項ヲ講談論議セズ」とあります。建前上、この結社は政治的な問題は論議しないと表明したわけです。それにしても論議しないことをわざわざ規則にもり込むとは、実際はその問題こそ議論するのだといっているようなものです。当時制定された集会条例が政治に関することを議論する場に教員や
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生徒の参加を禁止していることからいって、多くの小学校教員が参加している学芸講談会としては、そのままでは会の存在基盤を失ってしまうことになりかねないので、カモフラージュのために「講談論議セズ」としたと考えられます。
会には会員の知識を進歩させるために書籍を備えておいて、会員がいつでも自由に借りだして閲読できるシステムがつくられました。いわば学芸講談会文庫といわれるようなミニ図書室が付設されていたのです。資金のある者だけが知的分野でも突っ走るということではなく、低賃金の教員会員などにも閲覧の機会が平等に与えられていることに注目したいと思います。図書の自由閲覧ということならば、学芸講談会の若手幹事の深沢権八家は「深沢文庫」といえるような私設図書館を自宅に併設しており、会員をはじめ地域の青年たちに自由に閲覧をさせていました。「凡ソ東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハことユと悉ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シ」ていたし、民権家たちは「之ヲ読ムノ絶対自由ヲ与ヘラレ、読ムベキ書籍ニハ不自由ヲ感ジタルコトナシ」と、それを利用して成としみつ長した民権教師利光鶴松が記しています(『利光鶴松翁手記』昭和三二年)。
深沢家にはルソーの『民約論』、ミルの『男女同権論』、スペンサーの『社会平権論』などをはじめ、『仏国憲法講義』、『治罪法』、『刑法論綱』、『立法論綱』、『法律原論』など政治法律関係書籍が七〇冊近く残されていたし、当時の民権家たちが読んだと思われる書籍を備忘録やメモ類から抜き出してみると三七〇点を越えています。けっして廉価ではない新刊翻訳書の購入や民権派新聞雑誌類の購読に、深沢家は惜しげもなく大金を注ぎこみ、次々と蔵書をふやしていきました。五日市の民権学習運動のバックボーンの一つに、こうした文庫活動がありました。
また、学芸講談会のメンバーの一翼をになっている外部から呼んだ教員集団の力も無視できません。五日市町唯一の公立小学校(勧能学校)の初代校長の永沼織之允も二代目校長となる千葉卓三郎も、教員の伊東道友もみな旧仙台藩士ですが、教育の面で信頼されていると同時に民権運動もこの異郷の教師たちにほとんど"異郷"を感じさせない人間関係をつくりました。「全国浪人引受所」のような状況になっていた勧能学校では、「県ノ学務課ヨリ差向ケタル正当ノ教員ハ、片端ヨリイジメテ追イ出シ」ていたと、前述の教員利光は語っています。それに教員たちは年齢の差や経験の有無も関係なく月給を持ち寄り、共同生活をしていたともいいます。
この教員メンバーの主力がほとんど学芸講談会の会員として参加しています。地元の人間ではないということよりも、教育の現場の実践者であり、なおかつ平等主義に徹底した共同生活者であることが、学芸講談会の運営や人間関係、あるいは政治的な方向性までにも影響を与えたと考えられます。
一つの地域の中に、その地域を越えて結合した共同体のような組織(ボランタリー・アソシエーション)ができたともいえましょう。土着派・流入派、青・壮・老年、教員・医者・神官・酒醸造業・材木商、県議・町長・戸長など、さま
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ざまな立場の違いを持ちながら、なおかつ共通の目的に向って共同戦線を張れる新しい人間集団がつくり出されたのです。
徹底討論・五日市憲法
この学芸講談会の内部組織なのか別の組織なのか判然としませんが、五日市学術討論会なる組織が生れます。「政治、法律、経済其他百般」の問題をとりあげ、なかでも「意義深遠」で簡単には結論がでそうもない問題や、古来から諸説があって世間の人が往々にして誤解しやすい事項を特別に選び、なおかつ会員以外の傍聴を禁じて徹底討論する会でした。
この会のおそらく討論テーマであろう六三項目にわたる討論題が記された深沢権八の手録が残っています。「国会ハ二院ヲ要スルヤ」、「憲法改正ニ特別委員ヲ要スルノ可否」、「女帝ヲ立ツルノ可否」、「議員ニ給料ヲ与フルノ可否」、「議員ノ権力ニ制限ヲ置クノ可否」などに代表されるように、国会のあり方や国家型態に触れるテーマが多く、学芸講談会会員の中でも精鋭が集まり、これらの議題をめぐって徹底した論議が行われたとみることができます。
多摩の民権運動が後世に残してくれた民衆の最高の歴史遺産といえる「五日市憲法草案」は、このような学芸講談会や学術討論会の議論を踏まえた上でこそ誕生したといえましょう。明治一四年の春から夏にかけて作成されたと推測される憲法草案は、五日市の
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民権家たちの真摯な討論の中から一条一条紡ぎだすようにして生みだされたものです。勧能学校教員の千葉卓三郎が最後のまとめをしましたが、その作成過程をみれば学芸講談会や討論会参加者たちが積み上げてきた努力の結晶であることがわかります。
全部で二〇四条の大変長い憲法ですが、「国民ノ権利」の章にもっとも多い三六条も割き、次に司法権(三五条)、国会権任(三二条)となっているところをみても、どこに力点がおかれているかが一目瞭然です。例えば、「子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス、然レトモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス」というような教育の自由や子供の教育を受ける権利の保障は、現場の教師が議論に加わっていたからこそ条文化されたとみるべきでしょう。
また、「府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ、必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス、其権域ハ国会ト難トモ之ヲ侵ス可ラサル者トス」に込められた絶対不可侵ともいうべき地方自治権の保障は、実際に日夜、地方行財政の先頭にたって村政の舵取りをしている者や、県議や村議などの議員活動を通して脆弱な基盤しか持っていない地方自治を骨身にしみて感得している層が会員にいたからこそでてきた叫びのような条文です。
討論を通しての自己研讃、演説会を聴講しての刺激と吸収、読書活動の積み重ね、行財政や教育の現場での実践、さらに新しい人間関係から生れてくる磁力のようなエネルギーなどが五日市憲法草案誕生の活力源となりました。
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複合的運動としての民権
もう一つ忘れてならないのは、明治初年から一〇年代にかけて持っていた社会的、時代的な力です。文化創造という面からも、キリスト教受容にみられるように宗教の面からも、さらに地域の課題解決という側面からも、あるいは地場産業の振興という面からも、新しい歩みを示していました。民権運動はそうした複合的運動の総体ともいえましょう。すでに五日市の例で教育や地方自治の面から述べましたが、もう少し多面的な視点を提起します。
明治一四年をピークとする民権運動の第一期の昂揚期のあと、全国各地の民権運動を強力に引っぱっていった自由党が明治一七年に解党しますが、五日市では翌一八年から一九年にかけて表向きの政治、法律にかわって「憲天協会」、「協立衛生義会」、「英語学会」などの会が相次いで発足しました。
憲天協会とは民権家たちと近隣寺院の住職たちとの合従連衡(がつしようれんこう)で、仏教による社会の開化を目指しています。
協立衛生義会はコレラの流行という背景もあって、「人民ノ健康安全ノ保持増進」の方法をさまざまな角度から討議し、遅れている地域の「衛生上ノ智識ヲ普及」することが目的とされています。
英語学会は英学と英会話の速成教授をする学会で、五日市ばかりではなく青梅や日野にも同様の会が発足しました。
さらには私立教育会、漢詩創作グループなども同時並行で活動しています。
そこには明治政府の弾圧立法の前に、政治結社の表看板をおろさざるを得なくなり、やむなく変質しなければならなくなった時代背景もありますが、学習意欲や文化活動という面では断絶することなく多摩各地で取り組まれていたとみることができます。その潜在的な力があってこそ、明治一八年、国会の早期開設を求める声が全国的にでてきた時に、すぐさまそれに呼応して多摩三郡そろって三つの「国会開設期限短縮建白書」を書き上げ、提出することができたのではないかと思います。
ここでは多摩の自由民権運動を複合的な地域の運動の中に位置づけてみようとしてみました。民権運動を政治路線や政治的権利獲得闘争という面からだけでなく、多摩の各地におこったさまざまな地域文化運動や地域生活史という視点から迫る努力が必要でしょう。これまでのように自由民権と困民党という二極対比ではなく、重層的な運動を一枚一枚丹念に剥いでいく方法が求められています。
このような視点はそれから三〇~四〇年後の大正デモクラシー期、さらに大正デモクラシー期から同じ三〇~四〇年後の戦後地域文化運動というふうに、多摩の近現代史を俯瞰する時に有効となるでしょう。