多摩湖の桜2
東大和市の訪ねどころ、見どころの有力な一つが多摩湖・村山貯水池です。湖水、給水塔、礫層、動植物、湖底に沈んだ歴史・・・数え上げれば切りがありません。中でも多くの人々に愛されたのがさくらでした。『東大和のよもやまばなし』はこう語り出します。
「お花見の季節になると多摩湖はいつもの静かさとは見違えるように活気にあふれてきます。花のトンネルの下を車が連り、この時ばかりは夜桜まで人通りがたえません。
過去形で語らなければならないのがとても残念です。一部を除いて現状は惨憺たる状況で言葉に詰まります。
かっての花のトンネルの象徴とも云える大株の現状
幸い、市を挙げて復活に取り組み始めたので、明るさが見えてきました。一刻も早く、元の姿が見られるように、『東大和のよもやまばなし』に伝えられる経過を紹介します。
「お花見の季節になると多摩湖はいつもの静かさとは見違えるように活気にあふれてきます。花のトンネルの下を車が連り、この時ばかりは夜桜まで人通りがたえません。
この桜は昭和二年に村山貯水池(多摩湖)が出来た時に植えましたが、その時の木はほとんど枯れてありません。昭和九年に時計王といわれた服部金太郎氏が亡くなられ、翌十年に遺族の方から一万本の桜の寄付があり、主に人の多勢来る下貯水池のまわりに植えました。
人の集る所には吉野桜、北側の堤防からよく見える所や、南側の周囲道路に五間間隔で山桜を植えました。五間という間隔は木の盛んな時に広げた枝が、ちょっとつく位だそうです。直径五・六センチの若木を植えたのですが、今ある古木はその時のものです。八重桜は折られたり、早く枯れるのでほとんどないようです。
戦時中に出来た高射砲の陣地のため、その廻りの桜は切られてしまいました。戦後は薪(たきぎ)がなくて貯水池の山から木を切り出されたこともありました。
最近は広い所だけに手入れも思うようにまかせません。台風の被害も多く、昭和四十一年には貯水池の木も随分倒れ、五十四年には松が二百本近く折れました。
それでも春になれば桜はつぼみをふくらませます。空一ぱいにひろがる花の盛りは、日本の国花を思出させる季節です。近頃は周囲道路はマラソンのコースになり、走り抜けていく若い人の姿や、遠足の子供のにぎわいが湖水にひびき渡ります。
いつだったか白鳥が一羽とんで来て話題になったことがありました。新年の初日の出を見にここまで来る人もいるこの頃です。(東大和のよもやまばなしp151~152)
ここに描かれる花のトンネルはなくなりました。でも、季節になると人々は
でも、
周囲道路に残されているのは民地側
さて、貯水池に桜を植える構想は壮大なものでした。
一、白山桜 村山上、下貯水池並に山口貯水池周囲林地に配植す
一、紅山桜 山口貯水池に混植す
一、紅彼岸桜 山口貯水池南岸広場に散植す
一、染井吉野桜 村山、下堰堤、下公園供用区域並に村山ホテル付近その他広場
一、里桜 前項公園内の一部及三ヵ所の水道事務所付近
右配置は大体方針にして風致並に誘道の為多少の混植を為し分界を立てず順次推移せんとするものなり
一、植栽 総数壱万本の成木を目途とし壱万弐千本の幼樹を植栽し、尚補植更新用として別に拾万本の稚樹を養成する計画の元に紅山桜壱斗六升、小金井産山桜壱斗七升の種子を播下し猶里桜、彼岸桜繁殖用の砧木(だいぎ 接ぎ木の台)の購入を為すものとす(紅山桜、小金井産山桜の種子は既に播下済)
(武蔵野 昭和44年4月20日発行 第48巻1号 世界に誇れる桜の新名所に育てたい 村山、山口両貯水池周辺の桜 山田 菊雄)
もう一度、復活させる強力なりダーシップの出現を夢見ます。せめて、少ない額でも基金のためのボランティア活動が始められないでしょうか。(2014.04.01.記)