大和村百年

大和村百年

はじめに

今年2019年、令和元年は、大和村になって100年になります。
大正8年(1919)11月1日、当時の高木他五ヵ村組合村を廃止して「大和村」になりました。
大きな区切りですが、村になった意味をより明らかにするため、最初に、ごく簡単に、その100年前と50年前を紹介します。

百年前

1819年(文政2)
 清水村の地頭浅井氏の乱行事件が終結します。
 1817年(文化14)6月、清水村地頭浅井楯之助が清水村名主に、頼母子講の出金を申しつけ、自分で使ってしまった事件です。
 地頭が無尽の頼母子講を作り、支配地の名主たちに出金を申し付けた。しかし、目途額に不足した。そこで、名主たちにさらに出金を申し付けた。それは、非道に余るばかりの額であった。
 その上、なんと、当選した者に金を渡さず、自分で使ってしまった。それが2回も続いた。
 さらに、米の相場に関し、事実と違う価格を云いだし、差額分を村に負担させようとした。
 などの、乱行から、清水村の名主は、耐えられず、幕府の設けた目安箱に直訴した。
 という事件です。幕府は地頭に対して「所行よろしからず候段、隠居」との処分を下しました。(五十嵐民平考p65)

1821年(文政4) 天候不順
1822年(文政5) 蔵敷村にて78人の飢人発生、稗12石9と斗6升の施穀を実施(東村山市史上p804 文政里正日誌)
 廻り田村でも諸作物が不熟、収納率悪化、飢餓農民が発生(東村山市史上p804 文政里正日誌)
1827年(文政10)文政改革により無宿者取り締まり。
 8月22日、関東取締出役 取締筋改革のため、組合村結成を命ずる
 幕府は中心になる村を「寄場」とし、周辺のいくつかの村を集めて組合としてまとめた。
 関東取締出役を置いて広域的に取り締まりをする基盤とするためであった。
 当初は、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水村で小組合を結成する案であった。
 認められず、親村、寄場を所沢とする所沢寄場組合案を決定、東大和地域は蔵敷村組合として属し、芋窪村は拝島組合に所属した。
◎今回の大和村の前身の一つである「寄場組合村」がつくられました。
1838年(天保4)蔵敷、三本杉の近くで敵討ちが行われました。

50年前

1868年(慶応4年・明治元年)明治維新
1869年(明治2)神仏混淆調査 神社と権現(仏)の分離
 9月28日、不作のため、年貢積算根拠の変更申し出(里正日誌10p499)。蔵敷村・奈良橋村・宅部村・後ケ谷村・芋久保村・高木村・廻り田村を代表して、これまでの年貢の徴収方法である「定免」を破棄するように韮山県役所に願い出を提出、10月に「破免」となり解決。30%減。
1870年(明治3)蔵敷寄場組合、小川寄場組合に吸収される。
今回の大和村の前身の一つである「寄場組合村」の所属が変わっています。

 このように、100年前、50年前とも村々は幕府、政府の言いなりに、広域の団体に所属して、自立はほぼ認められませんでした。
 「大和村」の成立は、村人達が自立を勝ち取った、最初の団体・組織と云えそうです。